子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

世界の揉め事 イスラエルについて

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まずは、イスラエルの国旗から



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古代にこの地は「カナン」と呼ばれ、カナン人が住んでいた。
ユダヤ人の祖先となるヘブライ人も移住してきたが、ヘブライ人の子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となっていった。


その後エジプトを脱出したヘブライ人は、現在イスラエルの地を征服し、紀元前11世紀頃イスラエル王国が成立した。


紀元前11世紀といえば、日本はまだ縄文時代。
古代ギリシャ、古代エジプトの時代。


その後この地は内乱や戦争を繰り返し、紀元前300年頃アレクサンダー大王の東方遠征により征服される。


アレクサンダー大王



アレクサンダー大王は、古代マケドニア(ギリシア地域)の王。
古代ギリシアの三大哲人の一人「アリストテレス」に学問を教わった。
ちなみに、三大哲人は「ソクラテス」「プラトン」「アリストテレス」。
アリストテレスの師匠がプラトンで、プラトンの師匠がソクラテス。


アリストテレス



アレクサンダー大王は、エジプトもしたがえ、ペルシャ帝国(イラン人の国)を滅ぼし、さらにインドまで進んだ。


アレクサンダー大王の死後、古代マケドニアは分裂した。
その後、この地域(パレスチナと呼ぶ)はシリア王国(現在シリア・アラブ共和国)の支配下に入り、戦争によりユダヤ人(ヘブライ人)の王朝であるハスモン朝が成立する。


紀元前1世紀にハスモン朝はローマ帝国の属州「ユダヤ属州」となる。


ユダヤ人はローマ帝国から独立するために、戦争を起こすが(ユダヤ戦争)ローマ帝国により鎮圧された。


この時に数多くのユダヤ人が、離散ユダヤ人(ディアスポラ)となっていった。


その後、パレスチナはイスラム帝国(イスラム教の国)が支配し、約500年間イスラム教国家の支配下に置かれた。


1099年に第1回十字軍(ローマ教皇の呼びかけによるキリスト教の軍)によりエルサレム(ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地)が占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立した。
エルサレム王国は、1517年にはオスマン帝国に滅ぼされ、オスマン帝国がパレスチナを支配した。


1834年に「シオニズム」と呼ばれるユダヤ人の故郷をパレスチナに再建しようという近代的運動が起き、東ヨーロッパから約3万人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住した。
この頃、東欧やロシアではポグロムと呼ばれるユダヤ人虐殺が繰り返し発生していた。


ロシア帝政時代、近代化を進めていたロシア皇帝が農奴制の廃止を目指すが、身分問題などの社会的不満が高まる。
そこでもともと敵視されていたユダヤ人を虐殺することで社会的不満を解消した。


1914年第一次世界大戦が勃発。
1918年オスマン帝国は降伏しイギリスの占領統治が始まる。
この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなった。


その後、ユダヤ人移民のコミュニティーが大きくなり、アラブ人(中東に住み、イスラム教を信仰する人々)がそれに脅威を感じたことでユダヤ人襲撃が何度も起きる。


第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがホロコースト(ユダヤ人に対して組織的に行った大量虐殺)が行われ、ユダヤ人はパレスチナへの避難を急いだ。
イギリスは移民制限を変えることはなかったが、第二次世界大戦中、ユダヤ人は義勇兵としてイギリス軍とともに戦った。


戦争が終わると英米調査委員会が設立され、委員会は強制収容所にいる10万人のユダヤ人をパレスチナに移住させるようイギリス政府に勧告した。
しかしイギリス政府はこの勧告を受け入れず移民制限を変更しなかった。
これを受けユダヤ人過激派の反イギリス闘争が激化することになる。


イギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題について国際連合の勧告に委ねることにした。
国連の調査委員会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案が出され、国連総会で採択された。
イギリスは1948年5月15日をもって委任統治を終了し、紛争への介入を止めた。


ユダヤ人は1948年5月14日イスラエル独立宣言を行った。


これに対しアラブ諸国はパレスチナ人(アラブ人)を支援するため軍隊を動員し、5月15日パレスチナに侵攻。第一次中東戦争が勃発した。


イスラエル軍はアラブ諸国の軍を食い止め、5月29日の国連の停戦呼びかけに応じて6月11日から4週間の停戦に至った。


1949年、イスラエルはエジプトと休戦協定を締結。
続いてレバノン、ヨルダン、シリアとそれぞれ休戦協定を結び、第一次中東戦争は終結した。


戦争前の内戦状態から戦時中にかけ数十万人ものパレスチナ難民が発生することとなった。
エジプトはガザ地区に軍隊を駐留させ、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を領土に編入した。


イスラエルは1949年5月11日国際連合の加盟を承認された。


1956年エジプトがスエズ運河国有化宣言をすると、イギリス・フランス・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が勃発した。
エジプトの敗北は目前でアメリカの猛烈な反発を招き、停戦した。


1967年5月、エジプトはティラン海峡を封鎖し、第三次中東戦争が勃発。
これに対しイスラエルは奇襲攻撃を仕掛け、エジプト軍航空機のほとんどを離陸前に破壊した。


イスラエルはエジプトからシナイ半島とガザ地区を、シリアからゴラン高原を、ヨルダンからエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸を奪い取り戦争は終結した。
第三次中東戦争はわずか6日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わった。


1967年国連はイスラエルが占領した領地からの撤退を求める内容を含んだ決議を採択した。
この決議は中東和平の基本的枠組みとなっていく。


1950年代の終わり頃、アラファト率いるファタハ(パレスチナの政党)が結成された。


ヤセル・アラファト



アラブ諸国主導でパレスチナ解放機構(PLO)が設立され、アラファトがトップに立つ。


アラファトがトップに立つとPLOの活動は過激になる。
PLOはヨルダンを活動拠点としていたが、ヨルダンとの関係が悪化し、1970年ヨルダン軍はPLOを攻撃、内戦状態となった。


1973年エジプトとシリアがイスラエルに奇襲し、第四次中東戦争が始まった。
その後イスラエルは前線を押し戻し、戦争は2週間で終結に向かった。


エジプトのサダト大統領はアラブの首脳として初めてイスラエルを訪問した。
サダト大統領はイスラエルの国会で演説を行った。


1978年アメリカで、アメリカのカーター大統領、エジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相の三者会談が開かれ合意が成立した。
イスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意で、サダトとベギンは平和貢献を認められ1978年ノーベル平和賞を共同受賞。





1979年にエジプト・イスラエル平和条約が締結された。


1981年サダトはイスラム過激派により暗殺された。


1981年イスラエルはイラクの核兵器開発を阻止すべく、イラクの原子炉を攻撃した。


イスラエルは1978年と1982年の二度にかけて、レバノンに本部を移したPLOを駆逐するレバノン侵攻を開始し、PLOを追放した。


レバノンの大統領に選出されたファランヘ党のジュマイエルは就任直前に暗殺され、ファランヘ党員が報復のため難民キャンプにいた3千人近い非武装の難民を虐殺した。


1987年12月、イスラエル軍の車両がアラブ人の労働者を乗せて2台の車と衝突し4人が死亡したことをきっかけに民衆蜂起(インティファーダ)が起こった。
民衆はバリケードを築き、投石を行い、火炎瓶を投げた。
インティファーダは全占領地に広がったがイスラエルはこれを鎮圧した。


インティファーダには大人だけでなく子供も参加し、武装した兵士に立ち向かう少年の映像が報道され、国際的な非難がイスラエルに集まった。


1988年ヨルダンはヨルダン川西岸地区の主権を放棄し、それに伴いPLOはエルサエムを首都とするパレスチナ国の樹立を宣言した。


1991年湾岸戦争が勃発し、イラクによるスカッドミサイルの攻撃を受けたが、イスラエルの報復攻撃は行われなかった。


1993年オスロ合意というのが成され、PLOはイスラエルを国家として承認。
イスラエルもまたPLOをパレスチナ人の代表として認め、パレスチナ人の暫定的な自治を認めた。


この功績からPLOのアラファト、イスラエルのラビン首相、外務大臣のペレスはノーベル平和賞を共同受賞している。





しかし、イスラエル・アラブ双方の過激派はこれを認めなかった。


1987年に創設されたイスラーム主義(イスラム教国家・イスラム教社会の建設と運営を目ざす)を掲げるパレスチナの政党ハマスが自爆テロを繰り返し起こした。


1995年平和集会に参加していたラビン首相はユダヤ人(イスラエル人)学生に射殺された。


その後もテロ行為がハマスによって何度も引き起こされ、2000年に再びインティファーダ(民衆蜂起)が起こった。


イスラエルは、2002年にテロリストの侵入を阻むため分離壁(ヨルダン川西岸地区との境界)の建設を開始した。


イスラム教には二大宗派があり、一つはシーア派、もう一つはスンニ派。


2006年、レバノンにあるシーア派イスラム主義の武装組織ヒズボラがイスラエルに対し攻撃を行った。
イスラエルは報復としてレバノンに侵攻した。
レバノン侵攻は3ヶ月で停戦となるが、ヒズボラの拠点建物や地下施設を完全に破壊することは出来なかった。


2007年、ハマスはガザ地区を武力占拠し、ファタハとの連立内閣は崩壊。
ガザ地区はハマスが、ヨルダン川西岸地区はファタハが支配するようになる。


2008年、イスラエルはハマス掃討のためパレスチナ自治区ガザ地区に大規模な空爆を実行、地上からの侵攻を開始した。


2011年ハマスとファタハは対立関係を解消し、連立政権をつくり総選挙を行うことを発表。


2014年ハマスとファタハは統一内閣を樹立。
ハマスをテロ組織と見るイスラエルは反発し、ガザ北部を空爆した。


ハマスによるテロ攻撃、イスラエルによるガザ地区への攻撃は現在も続いている。


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