子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

昭和時代1926年〜1989年 約60年間



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大正天皇が心臓発作で病死したあと、昭和天皇が25歳で即位。


昭和天皇



この頃から日本で軍部の暴走が始まる。


昭和時代に入り5年が経った時、「満州事変(まんしゅうじへん)」が勃発。


満州事変とは・・・


アメリカに始まった経済不況の波は日本にも押し寄せてくる。
この状況をどうにか打開したい軍部は、満州に目を向ける。
当時日本はは21か条の要求により、満州鉄道の利権を獲得していた。


中国では内乱で清王朝が滅び、その後も混乱が続いていた。
軍の幹部が力を持つ時代となり、軍閥の張作霖(ちょう さくりん)が満州を支配していた。
満州で排日運動が起こっていたのは、この張作霖の工作によるもの。


張作霖



最初日本は張作霖を支持していたが、張作霖が内戦で負けたのをきっかけに態度を変える。
張作霖を暗殺し、日本主体の満州政府樹立をめざした。


しかし、張作霖の息子が中国政府に近づき満州利権が脅かされる危険がでてきた。
満州の利権を狙う日本軍部は満州鉄道で爆破事件を起こし、それを中国政府軍のせいにして強引に開戦。
日本軍は、日本政府の反対を無視して満州全土を占領した。


この翌年、日本国内で五・一五事件(ご いち ご じけん)が起きる。
これは日本海軍によるクーデターで、首相官邸や日本銀行、警視庁などを襲撃し犬養毅(いぬかい つよし)首相を射殺した。
「ワシントン軍縮会議により結ばれた四カ国協定による軍縮は腰抜けだ外交だ」というのが海軍の言い分。
この結果日本の政党政治が終わり、軍の独裁政治が始まる。


犬養毅



日本軍部は清の最後の皇帝、愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)を担ぎ満州国を独立国として成立させたが、中国は日本軍の不当を国際連盟に訴えた。


愛新覚羅 溥儀



訴えを受けた国際連盟は、「リットン調査団」を派遣して調査を行い、結果日本軍の行動を不当として満州国の独立を認めなかった。
それを不服とした日本軍は、国際連盟を脱退する。
五・一五事件以降、軍が政治を行っており暴走に拍車がかかっている。


その3年後、軍の横暴がとまらない。
日本国内で二・二六事件(ににろくじけん)が起きる。
今度は陸軍の反乱。
海軍と陸軍はお互いを意識し競い合っていた。
五・一五事件以来、軍備拡大も海軍主導で進められていた。


ここで一度「皇道派(こうどうは)」と「統制派(とうせいは)」の話をしなければならない。
皇道派とは、クーデタによる軍部内閣の樹立を目指し、天皇中心の革新論を唱えるグループ。
それに対し統制派とは、皇道派に対抗して組織化されたもので、クーデタによる国家改造を否定し、合法的に権力を樹立しようとするグループ。
ただ五・一五事件で権力を手に入れて作ったのが統制派であり、どっちもどっちである。


二・二六事件の主犯は皇道派陸軍1,400名。
陸軍省・参謀本部・警視庁などを占拠し、統制派の高官を殺害。
政府は動揺して右往左往していたところ、昭和天皇が「反乱軍をただちに鎮圧せよ。お前達にできないなら自分が近衛部隊を率いて鎮定に当たる」と言った。


翌日になってようやく戒厳令が施行。
皇道派の反乱軍は逆賊になったことで動揺し、反乱は鎮圧された。
首謀者17名が死刑になり事件は終わったが、後に皇道派の考えを継ぐものが軍部内で力を持つようになり、日本は世界から孤立するようななっていく。


その翌年、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)近くで日本軍が演習中に何者かに銃撃を受けた。


盧溝橋



なぜ日本軍が北京郊外で演習をおこなっていたのか・・
日清戦争後、中国国内で外国人やキリスト教会を襲撃し虐殺する事件が多発していた。
その対策として日本を含む8ヵ国(日本、ドイツ、イギリス、ロシア、アメリカ、イタリア、フランス、オーストリア)は連合軍を結成して外国人大虐殺事件を鎮静した。
その後、中国との取り決めで外国の軍隊が中国に駐屯し、警察の役割を務めることになった。
そのため、日本軍は北京郊外に駐屯していた。


盧溝橋近くで演習中に銃撃を受けた日本軍は誰に襲撃されたのかわからなかったが、中国国民党がやったとして日本軍は翌日中国軍に攻撃をした。


当時中国では、国民党と共産党が対立していた。
共産党は、国民党と日本軍の共倒れを狙い日本軍を銃撃していた。
ちなみに共産党は同時に国民党にも銃撃をしている。


日本軍と中国国民党は交戦状態になったが、お互いに疑問があったため5日後に停戦協定を結んだ。


盧溝橋事件から3週間後、日本人が住んでいた住んでいた集落を中国人部隊が襲撃した。
襲撃の理由は不明だが、日本軍が行った爆撃の報復だと見られる。
その集落には兵士の家族らが住んでいたが、約260人が惨殺された。
殺害方法も猟奇的なものが多く、歴史的な大虐殺の一つ。
通州事件(つうしゅうじけん)と呼ばれている。


これらの事件が相次ぎ、日中関係は険悪なムードになってゆく。
通州事件から約一ヶ月後、中国は日本の治外法権が正式に認められていた区域に突然宣戦布告無しで攻撃してきた。
日本兵5000人に対し中国兵20万人。


ここから宣戦布告がないまま日中は戦争状態となる。
これが日中戦争と呼ばれているもの。
この事件の後、日本軍は南京を攻撃。3ヶ月後に南京を占領した。
南京を占領した際、日本軍が中国人を虐殺したと中国側は言っているが証拠は残っていない。


翌年、国家総動員法という悪法が出される。
これは、戦争にそなえ国民のすべてを統制する権限を政府にあたえるという法律。
この時政府は軍部が握っていた。


その翌年、1939年9月1日、ついに第二次世界大戦が始まる。


ドイツ軍が宣戦布告なしにポーランドに侵攻したところが第二次世界大戦の始まり。
ポーランドはドイツとソビエト連邦(ロシア)に挟まれた国。
それに対し、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告。
その2週間後、何故かソビエト連邦がポーランドに侵攻し、約1ヶ月後ポーランドは降伏した。


ソビエト連邦は更にフィンランドに侵攻。
フィンランドはなんとか独立を維持できたが、多くの領地をソビエト連邦に奪われてしまう。


今度はドイツ。ヨーロッパ北部に侵攻を始める。
デンマークとノルウェー、オランダ、ベルギーが降伏。
その勢いのまま、ドイツはフランスに進撃を開始する。


ドイツの勢いに乗り、イタリアがイギリスとフランスに宣戦布告。
フランスは、ドイツとイタリアに降伏した。


この間約3ヶ月。3ヶ月の間にドイツはデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギー・フランスを占領した。


ドイツはこのあとイギリスと交戦状態となる。
イギリス本土が戦場になる。


ドイツに乗り遅れてはいけないと、日本はフランスの植民地であったインドシナ北部を占領。


イタリアがリビア、エジプトに侵攻し始めた頃、「日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)」が結ばれる。
ヨーロッパとアジアでの指導権を認め合い、他国からの攻撃に対してお互いに協力するという同盟。
その後、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが三国同盟に加盟した。


一方、原油資源が豊富なアメリカはイギリス連合軍に積極的な経済支援を開始。


ドイツ軍がギリシャを制圧し、今度はソビエト連邦に宣戦布告。


この時、日本とソビエト連邦は「日ソ中立条約」を結びお互いの不可侵を約束した。
これにより、ソビエト連邦はドイツとの戦争に集中。日本は南部への侵攻政策をとるようになる。


その後ソビエト連邦は、イギリス連合軍に加入。


ドイツが優勢にソビエト侵攻を進める。


日本がフランス領の南インドシナを占領。


イギリス、フランスに経済支援を行っているアメリカは、日本に対し石油の輸出を停止。
アメリカと日本の関係が悪化する。


1941年12月8日、日本が真珠湾(ハワイ)を攻撃し、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる。
大東亜戦争とは、アメリカと日本の戦争。
日本は奇襲攻撃にならないようにするため、宣戦布告の電報を攻撃前にアメリカに送るように指示していたが、その指示された部下が深酒により寝坊した。
そのため日本の宣戦布告が遅れ、真珠湾攻撃は日本の奇襲攻撃になった。
実はその5日前に、日本は真珠湾攻撃確定の暗号を味方艦隊に送ったが、その暗号はアメリカに解読されていた。
アメリカは真珠湾の攻撃を事前に知っていたがそれを黙認していた。


この時、日本政府の内閣総理大臣は東条英機(とうじょうひでき)。
現役軍人として総理大臣に就任。
戦後、A級戦犯となり処刑される。


東条英機



大東亜戦争が始まり、イギリスが日本に宣戦布告。
これに対し、ドイツとイタリアがアメリカに対し宣戦布告を行った。


その後、原油資源に乏しい日本とドイツは戦況が悪くなりしだいに追い詰められていく。


日本は原油資源が底を付き、恐ろしい兵器を作り始める。
海軍の人間魚雷「回天(かいてん)」、陸軍の人間爆弾「桜花(おうか)」。
爆弾を積んで特攻するだけのもの。


回天



桜花



桜花はアメリカで「バカ爆弾」と呼ばれ展示されている。


桜花に乗る兵士は、ほとんどが学生出身で操縦教育もほとんど受けていなかった。
軍幹部に脅迫され、殴られ、無理やり桜花に乗せられた。


日本軍は戦闘機「零戦(ぜろせん)」を使った特攻も行っている。


零戦



アメリカのB29戦闘機による本土爆撃が激化し、沖縄が占領された。


B29



先にドイツが無条件降伏するが、日本は降伏せず特攻攻撃を続ける。


1945年8月6日、B29により広島にウラン型原子爆弾(通称リトルボーイ)が落とされ、日本国民約12万人が死亡。
その3日後1945年8月9日、長崎にプルトニウム型原子爆弾が落とされ、日本国民約15万人が死亡した。


ソビエト連邦が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し、北方領土を占領。


1945年8月15日、ラジオの玉音放送(ぎょくおんほうそう)により日本の無条件降伏を国民に伝える。
玉音放送とは、天皇の肉声を放送すること。


1945年9月2日、ポツダム宣言による降伏文書に調印。
ポツダム宣言とは、アメリカ、イギリス、中国の3ヶ国による日本に対する共同宣言。


司令長官をマッカーサー元帥とし、連合国が日本を占領する。


マッカーサー元帥



連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ General Headquarters)略してGHQが置かれ、日本はGHQの統制下に置かれる。


翌年、日本国憲法が交付され、更に1年後施行される。


日本国憲法が施行されてから3年後、朝鮮戦争が始まる。
この朝鮮戦争は、日本復興に大きく影響した。


朝鮮戦争とは


第二次世界大戦で日本が敗北したことで朝鮮半島での日本統治が終わった。
その後朝鮮半島は連合国の管轄になったのだが、北緯38度線から北側をソビエト連邦、南側をアメリカが管轄することになった。
これはドイツも同じで、ドイツは東西に分断。東をソビエト連邦、西をアメリカ、イギリス、フランスが管轄した。


北朝鮮軍が北緯38度線を超えて侵略してきたため韓国は応戦。
これをきっかけに朝鮮戦争が始まった。
宣戦布告なしの奇襲攻撃。
北朝鮮側は「韓国が先に先制攻撃をしてきた」と主張しているが事実ではない。


この結果韓国軍は敗退したが、アメリカを中心とする国連軍(ソビエト、中国を除く)が韓国側につき参戦。
中国は北朝鮮側につき参戦した。


その後、膠着状態になり3年後に休戦(停戦)した。
今も停戦状態にある。


この停戦時、日本は軍隊を持っていなかった。
韓国はこの時から日本に対して強硬姿勢をとるようになった。


朝鮮戦争で共産主義に対抗するため、日本の独立が早まった。
朝鮮戦争が始まった1年後には「サンフランシスコ平和条約(日本と連合国の平和条約)」が結ばれ、日本とアメリカの間で「日米安全保障条約」が結ばれた。
日米安全保障条約は、日本が軍隊を持っていなかったのでアメリカが日本の安全を保証するという条約。
その代わり、アメリカ軍の日本駐留を約束した。


停戦まで3年間続いた朝鮮戦争は、戦後日本の経済を活発にした。
日本から韓国に物資を支援するため、発注受けた日本企業はアメリカから最新の技術を入手でき、大量生産技術を学ぶことができた。


朝鮮戦争が停戦してから3年後、「日ソ共同宣言(にっソきょうどうせんげん)」によりソビエト連邦との国交回復した。
しかし、現在もロシアとの間にこのときの領土問題が残っている。


日ソ共同宣言により日本とソビエト連邦の戦争が終結し、日本は国際連合へ加入した。


その約10年後、「日韓基本条約」が結ばれ日本と韓国は国交回復した。


日韓基本条約では、日本が韓国に対して行う経済協力金の内容が記され、今後韓国は日本に対して一切の賠償請求ができないと定められている。


さらにその7年後の1972年、ようやく沖縄諸島が日本に復帰した。
沖縄は終戦から27年間、アメリカの統治を受けていた。


同年、「日中共同声明」により日本と中国の国交が回復。
日本は中国政府が中国の唯一の合法政府であることを認め、台湾が中国領土であることを理解、尊重する代わりに、中国側の賠償請求の放棄を約束した。
これにより、日本と中国の戦争は終結した。


翌年、中東戦争の影響で石油供給が滞り石油価格が急騰。
先進国の経済は混乱し、日本も大打撃を受けた。
これにより、戦後の高度経済成長が終わった。


昭和天皇が心筋梗塞で病死し、長い昭和時代が幕を閉じた。


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