子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

世界の揉め事 北方領土問題

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北方領土は北海道根室半島の沖合にあり、現在ロシアが実効支配している「択捉島(えとろふ)」「国後島(くなしり)」「色丹島(しこたん)」「歯舞群島の島々(はぼまい)」に対して、日本は返還を求めている。





第二次世界大戦が佳境に入った1945年2月4日〜11日にクリミア半島(ウクライナ)のヤルタ近郊でアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談が行われた(ヤルタ会談)。
この会談で、日本領土の処遇が決定した。


ヤルタ会談



1945年(昭和20年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定。


ポツダム宣言とは、7月26日にアメリカ大統領、イギリス首相、中国主席の名において日本に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」を求めた全13か条から成る宣言。
日本はこの宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。


日本がポツダム宣言を受諾した後、8月28日から9月5日にかけてソ連軍が北方領土に上陸し占領。
北方領土は現在に至るまでソ連(現在ロシア)が実効支配を継続している。


1951年(昭和26年)9月8日、日本とアメリカをはじめとする連合国との間の戦争状態を終結させるため、「サンフランシスコ平和条約」が両者の間で締結され、日本と連合国との間の「戦争状態」が終結した。


当時の日本の首相は吉田茂。



しかし、この時点で中国とソ連(現在ロシア)は平和条約に調印しなかった。


このサンフランシスコ平和条約には、ヤルタ会談で決まっていた「千島列島の権利、権原及び請求権の放棄」が含まれている。





ここで言う「千島列島」とは、根室海峡からカムチャツカ半島の南までの間に連なる列島のこと。


日本はポツダム宣言を受け入れたことにより、「千島列島の権利、権原及び請求権の放棄」をすることになった。




ソ連(現在ロシア)はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったため、この時点で「千島列島の権利、権原及び請求権の放棄」に対する拘束力はない。


サンフランシスコ平和条約調印後に開かれた国会で、日本が条約で放棄した千島に国後・択捉が含まれると答弁。
当時、日本が放棄した千島列島には国後・択捉が含まれると解釈されていた。


そのためこの時点での北方領土は、歯舞、色丹島の引渡を求めるものだった。


1956年2月に開かれた国会で、日本政府は千島列島に対する答弁を取り消し、日本が条約で放棄した千島列島に国後・択捉が含まれないとした。
この時から北方領土は四島返還論となる。


日本政府が千島列島に国後・択捉が含まれないとした理由は、江戸時代にさかのぼる。


1853年の黒船来航により、日本とアメリカの間で翌年の1854年に「日米和親条約」が結ばれ、日本の鎖国が終焉を迎えた。


ロシア帝国も日本に開国を要求していたが、クリミア戦争(ロシア帝国とオスマン帝国の戦争)が勃発したことで条約締結が遅れ、翌年の1855年に「日露和親条約」が結ばれた。


日露和親条約では、ロシア船への開港と千島列島における国境が決められた。
この条約で決められた国境は、択捉島(えとろふ)と得撫島(うるっぷ)の間である。


1875年、日本とロシアは「樺太・千島交換条約」を結び、千島列島を日本領、樺太(サハリン)をロシア領とした。


日露和親条約で、択捉島(えとろふ)と得撫島(うるっぷ)の間に国境が定められていたため、この交換条約での「千島」は得撫島(うるっぷ)より北の千島列島となる。


これにより、「択捉島(えとろふ)」「国後島(くなしり)」「色丹島(しこたん)」「歯舞群島の島々(はぼまい)」の4島は日本固有の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島は得撫島(うるっぷ)より北の千島列島であるという主張になる。




ソ連(現在ロシア)はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったため、日本はソ連と個別に条約を結ぶことになる。


1956年8月、日ソ平和条約案が話し合われる。
モスクワで行われた日ソ平和条約交渉で日本は四島返還を主張したが、ソ連の態度は硬く四島返還を実現することは不可能だった。
このような状況の中で重光 葵(しげみつ まもる)外相は、歯舞・色丹返還の2島返還で平和条約を締結することを決意。
「日ソ平和条約締結のためには歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない」という内容の電文を東京に打電した。


重光 葵(しげみつ まもる)



当時首相だった鳩山一郎は、重光の提案を拒否し、自ら交渉に臨んだ。


鳩山一郎



しかし鳩山は北方領土問題を何ら打開できず、アメリカからは弱腰外交だと批判されたため、日ソ平和条約の締結および北方領土問題の解決を棚上げすることとした。
そして1956年10月、ソ連との国交回復を意味する「日ソ共同宣言」だけを行った。


この鳩山の対応の不備により、現在も北方領土問題は解決に至っていない。


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