子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

世界の揉め事 イランについて

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イラン・イスラム共和国(通称イラン)は、別名でペルシャとも呼ばれる。


まずは国旗から



マップ





紀元前330年、この土地ではペルシャ帝国という国が栄えていた。
ペルシャ帝国はマケドニア王国のアレクサンダー大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされた。


アレクサンダー大王





アレクサンダー大王は、エジプトもしたがえ、ペルシャ帝国を滅ぼし、さらにインドまで進んだ。


アレクサンダー大王が死去してからこの地域は何度も戦争を繰り返す。


この地域では常に戦争が起きていて、1220年代にはモンゴル帝国の征服で荒廃し、1800年代にはイギリス、ロシアなどの勢力争奪の場となった。


1800年代、この地域はガージャール朝のという王朝に治められていた。
ガージャール朝は約100年間続くが、ガージャール朝末期の1905年に日露戦争で日本がロシアに勝利すると、大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人は受け止め、憲法の導入を国民が意識し始める。


1905年イラン立憲革命が始まったが、イギリスとロシアの介入、内戦の勃発が進行した末、1911年に議会は解散させられ立憲革命は終わった。
この立憲革命の最中の1908年「マスジェド・ソレイマーン」という地域でイラン国内で初めて油田が発見された。


発見したのは、イギリスの資本家ウイリアム・ノックス・ダーシー。


ウイリアム・ノックス・ダーシー



ダージーは、1902年にガージャール朝の第5代国王モザッファロッディーンから60年間の石油の探索・採掘権を買い取り、イランで石油の探索を開始。
この石油採掘の利権は、イラン国土の6分の5にも及ぶ。


モザッファロッディーン



1908年にダーシーの雇った地質学者がイランで石油を掘り当てると、翌年イギリス系のアングロ・ペルシアン(アングロ・イラニアン)石油会社創設され、イランの石油利権を得る。
アングロ・ペルシアン石油会社はのちに現在のBP社となる。


やがてダーシーは資金的に行き詰まり、イギリス政府がこの利権を買い上げ、イギリスの財産として温存した。


ダーシーとイラン政府の契約によると、アングロ・ペルシアン石油会社は純利益の16%を利権としてイラン政府に支払わなければならなかったが、イギリスは支払わなかった。


1914年、第一次世界大戦が勃発。
この地域は、イギリス軍とロシア軍に分割占領される。
そこへオスマン帝国が侵攻し国内は戦乱に巻き込まれた。


1918年、第一次世界大戦が終結。


1926年、パフラヴィー朝が成立。
レザー・パフラヴィーが皇帝に即位した。


レザー・パフラヴィー



1935年、当時外国から「ペルシャ」と呼ばれていたこの地域を「イラン」へ変更。


1939年、第二次世界大戦が勃発。


当時ナチス・ドイツに接近していたイランは、1941年連合国に敗北し、イギリスとソ連によって領土を分割された。


1941年、レザー・パフラヴィーが息子モハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位。


モハンマド・レザー・パフラヴィー



1951年、モハンマド・モサデク議員が国民の圧倒的支持を集めて首相に就任。


モハンマド・モサデク



第二次世界大戦中イランは、北はソ連、南はイギリスに占領され、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン(アングロ・ペルシアン)石油会社がアバダン地域の石油を独占していた。


イランからは石油が豊富に採掘されるにもかかわらず、その利益はイギリスに独占され、イラン国民は貧困にあえいでいた。


モサデグ首相は「石油国有化政策」を推し進め、イランの完全な主権回復を主張する運動のシンボルとして盛り上がりを増す。


首相就任後に石油国有化法を可決させ、アングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し、石油産業を国有化した。
国有化宣言はイラン国民にとっては歓喜の瞬間であり、モサデク首相は国民の英雄になった。


モハンマド皇帝はモサデク首相の勢力におされ、イランを脱出し亡命した。


これに反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明。
同時にイランの石油のボイコットを世界の石油会社に呼びかけ、アングロ・イラニアン石油会社からの石油は買い取ってもらえない状況に陥る。


アメリカは当初静観し、イギリスとイランの仲介を試みていた。


一方日本では太平洋戦争後、アメリカによる実質的な間接統治下にあり、石油を自由に輸入する事が困難な情勢になっていて経済発展の足かせになっていた。


世界の石油利権が「セブン・シスターズ(7人の魔女)」と呼ばれる巨大メジャーによって支配されていたためである。
エクソン(アメリカ)、モービル(アメリカ)、ソーカル(アメリカ)、テキサコ(アメリカ)、ガルフ(アメリカ)、BP(イギリス)、ロイヤル・ダッチ・シェル(イギリスとオランダの合弁会社)の7つ。


イラン国民の貧困を救い、日本の経済発展を促進させるため、出光興産の出光佐三社長は、経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー)をイランのアバダンに派遣する事を決意。


出光佐三



第三国経由でイランに交渉者として弟の出光計助専務を極秘派遣。
モサデク首相などイラン側要人と会談を行う。


日章丸は1953年3月23日9時神戸港を極秘裏に出港。
航路を偽装してイギリス海軍から隠れる形で4月10日イランのアバダンに到着。
世界中に報道され国際的な事件となった。


4月15日、石油を積んだ日章丸は急いでアバダン港を出港。
イギリス海軍の裏をかき、撃沈を回避する事に成功。
5月9日9時に川崎港に到着した。


イギリス政府は、日章丸の石油がイギリスのものであると主張。
仮押さえ処分となり裁判になったが、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカは黙認し、行政処分は見送られた。
裁判でも出光側の正当性が認められ、仮押さえ処分は却下された。


これを「日章丸事件」という。


1953年6月、 イラン政府と出光は当初の契約を見直し、石油価格を大幅減額で提供する旨を発表。
日章丸は再びアバダン港に出発し、アバダンに到着するとイラン政府高官、および数千人の民衆の出迎えを受けた。


その後、ソ連・イラン合同委員会がつくられると事態が一変する。
イランがソ連との関係を深めていくことに警戒感を示したアメリカはイランの政権転覆を図る。


アメリカはCIA(諜報活動を行うアメリカ合衆国の情報機関)にイランの政権転覆を命じた。
CIAはイギリスの秘密情報部と協力してイラン国内でクーデターを起こし、モサデグ首相を失脚させ、亡命していたモハンマド皇帝に国の実権を握らせた。


モサデグ首相は職を追われて逮捕され、3年間の投獄を経て自宅軟禁となるが軟禁中に死去。


1954年、モハンマド皇帝はこの事件におけるアメリカの支持への見返りとして、アングロ・イラニアン石油会社の株式のうち40%を5つのアメリカ系メジャーが保有し、残りの株式をイギリスの英国石油が40%、イギリスのロイヤル・ダッチ・シェルが14%、フランス石油会社が6%保有するという契約を交わした。


1951年から1954年に起きたこの一連の事件を「アバダン危機」という。


1957年、モハンマド皇帝はアメリカとイギリスの強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進していく。


モハンマド皇帝はアメリカから多大な支援を受けていて、その見返りにアメリカから大量の兵器を購入した。
モハンマド皇帝自身がホワイトハウスを公式訪問し、歴代大統領からの賞賛を得ている。


さらにモハンマド皇帝はアメリカのCIAとFBI、イスラエルの情報機関モサドの協力を得て国家情報治安機構(SAVAK)を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧した。


1962年には、農地改革令を発し大地主の勢力を削ぎ、皇帝の支配を強めていく。


1965年以降、国家情報安全機関(SAVAK)の活動が活発化。
約1万3千人の人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問された。


それを受け、ルーホッラー・ホメイニーの指導するイスラム教勢力が皇帝の独裁支配に反対し、反政府活動を大々的に繰り広げるようになった。


ルーホッラー・ホメイニー



その頃、イラクの領土であるとされていたシャトル・アラブ川の領有権をめぐる争いでイラクとの関係が急速に悪化。
1969年、イランは領有権を決めていた協定を破棄し再交渉を要求した。


イランはモハンマド皇帝の独裁により防衛費に多大な予算をつぎ込んでいた。
これを背景に1971年、イラン軍はペルシア湾口の3島を占領。


この問題は1975年にイラン・イラク双方の合意(アルジェ合意)で解決した。


1970年代後半、モハンマド皇帝への反感、国家情報安全機関(SAVAK)への嫌悪が高まっていく。


1979年、ホメイニーを指導者としイスラム教シーア派を中心とする革命勢力が、モハンマド皇帝に反対し、革命が起きた。(イスラム革命)
これにより、イスラム共和制を採用する「イラン・イスラム共和国」が樹立された。


「イスラム共和制」とは、人民が選出した代表が統治を行う共和制という概念を基調とし、国法がイスラム教に基づく。


モハンマド皇帝はイランから亡命し、皇帝の独裁は崩壊した。


新たな指導者となったホメイニーは、直後からアメリカを「大悪魔」「不信仰者の国」と痛罵。


アメリカのカーター政権はモハンマド皇帝に対する支援供与を拒否し、モハンマド皇帝の政権復帰に関心を持たないことを表明。
しかし当時癌を患っていたモハンマド皇帝が治療のためアメリカ入国を申請すると、皇帝の入国を認めた。


カーター大統領



ホメイニー率いる革命政権はアメリカ政府に対して、革命政権の承認、モハンマド皇帝が私物化した財産の返還、モハンマド皇帝の身柄引き渡しを要求した。


カーター大統領はその要求を拒否し、イランにあるアメリカ資産を接収した。


その後、革命政権はアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にして、アメリカ政府に対する要求を継続。
これに対しカーター大統領は翌年、イランに対する国交断絶と経済制裁を実施した。
この事件では52人のアメリカ人が444日間にわたって人質となったが、その後無事解放された。


1979年、隣国イラクの大統領にサダム・フセインが就任。


サダム・フセイン



その翌年の1980年、イラン・イラク国境を流れるシャトル・アラブ川の水利権をめぐってイラン・イラク戦争が勃発。
この戦争は約8年間続くことになる。


シャトル・アラブ川にはイランのカールーン川が接続しており、両国の石油輸出の要。


シャトル・アラブ川の使用権をめぐる紛争は、以前から長年の間衝突の原因だった。
シャトル・アラブ川はペルシア湾に注ぎ込むチグリス川・ユーフラテス川の下流域で、両国の国境にあたる。


シャトル・アラブ川沿いの都市バスラはイラク第二の都市で、石油積み出し場として重要な港。


イラクは、革命直後のイラン国内の混乱に乗じて奇襲攻撃を行った。
これによりイラン・イラク戦争が始まる。


アメリカやソビエトがイラクを支援していたため、イランは劣勢が続いた。


しかしアラブ全てを敵に回しているイスラエルがイランに対して援助を始めると、シリアとリビアも支援を始めた。


1982年、シリア経由のパイプラインが止められ、イラクは石油の輸出ができなくなった。
この頃から戦況が変わり、イランは領土のほぼ全域を奪還し、イラク国内への攻勢に出た。


同年、シリアの占領下に置かれていたレバノンにイスラエル軍が侵攻したため、一時イラン・イラク戦争は沈静化。


1984年イラン・イラク間の戦闘が再燃。
アメリカのレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定。


レーガン大統領



1986年、アメリカ軍の兵士がイスラエルの隣国レバノンでの活動中、イスラム教シーア派系過激派ヒズボラに拘束され、人質となってしまった。
彼らを救出する為、アメリカ政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラクと戦うイランに対し、武器を輸出する事を約束した。


イスラム革命時のアメリカ大使館人質事件により、アメリカはイランを敵視してイランに対する武器輸出を公式に禁じていたが、その禁を破った形となる。


さらにアメリカ政府は、イランに武器を売却した収益を、中央アメリカ中部に位置するラテンアメリカの共和制国家「ニカラグア」で反政府戦争を行うゲリラ組織「コントラ」に与えていた。


ニカラグアは革命後ソビエト連邦に支援されていて、社会主義寄りの政権が統治していた。
社会主義寄りの政権を打倒するために、反政府ゲリラ組織コントラへの資金提供を行ってたのだ。


この時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は当時副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュであった。


ジョージ・H・W・ブッシュ



1987年、イランはイラク国内のクルド人を支援して反乱を起こすよう仕向けたが、イラク軍はクルド人に化学兵器を使用して虐殺した。


同年、国連が即時停戦などの内容で決議を採択。
先にイラクが受諾の姿勢を見せたが、相互の攻撃は収まらなかった。


1988年、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。
イランは国連決議の受諾を表明し、停戦が発効した。


同年、アメリカの巡洋艦がイラン航空の民間航空機を撃墜するという事件が発生。
イラン領空内での撃墜で、子供66人を含む6カ国あわせて290人の一般人が死亡した。
アメリカは犠牲者に対する補償は行ったが、3000万ドル以上と見積もられる航空機自体の補償は現在もされていない。


1990年、イラン・イラク両国間で国交が回復。


現在もアメリカのイランに対する経済制裁は続いている。


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