子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

世界の揉め事 湾岸戦争について

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湾岸戦争は1990年にイラクがクウェートに侵攻したのをきっかけに国際連合が多国籍軍を結成し、1991年に多国籍軍がイラクを空爆した事に始まった戦争。







1973年、第四次中東戦争が勃発した翌年、 クルド人とイラクとの間で戦争が勃発した。


この戦争は約1年続き、双方合わせて約1万人が死傷した。
その後、この戦いでイラク国軍を率いたサダム・フセインが実権を掌握していった。


グルド人は独自の国家を持たない世界最大の民族集団で、人口は約3000万人。
現在クルド人口が最も多いのはトルコで、約1500万人が居住している。
トルコの次にクルド人口が多いのがイラク。
イラクには500万人のグルド人が暮らしている(イラク人口の約2割)


1979年、イラクの大統領にサダム・フセインが就任した。


サダム・フセイン



その翌年、イラン・イラク国境を流れるシャトル・アラブ川の水利権をめぐってイラン・イラク戦争が勃発。
この戦争は約8年間続いた。
シャトル・アラブ川にはイランのカールーン川が接続しており、両国の石油輸出の要。


シャトル・アラブ川の使用権をめぐる紛争は、以前から長年の間衝突の原因だった。
シャトル・アラブ川はペルシア湾に注ぎ込むチグリス川・ユーフラテス川の下流域で、両国の国境にあたる。


シャトル・アラブ川沿いの都市バスラはイラク第二の都市で、石油積み出し場として重要な港でもあった。


イランでは1979年にシーア派(イスラム教の二大宗派のひとつ。一方はスンナ派)によるイスラム革命(民主主義革命)があり、「イスラム共和制(人民が選出した代表が統治を行い、国法がイスラム教に基づく)」を敷き、イラン国内の混乱が増していた。


1980年、イラン国内の混乱に乗じてイラクが奇襲攻撃を行い、イラン・イラク戦争が始まった。
アメリカやソビエトがイラクを支援していたため、イランは劣勢が続いた。


しかしアラブ全てを敵に回しているイスラエルがイランに対して援助を始めると、シリアとリビアも支援を始めた。


1982年、シリア経由のパイプラインが止められ、イラクは石油の輸出ができなくなった。
この頃から戦況が変わり、イランは領土のほぼ全域を奪還し、イラク国内への攻勢に出た。


同年、シリアの占領下に置かれていたレバノンにイスラエル軍が侵攻したため、一時イラン・イラク戦争は沈静化した。


1984年イラン・イラク間の戦闘が再燃。


1987年、イランはイラク国内のクルド人を支援して反乱を起こすよう仕向けたが、イラク軍はクルド人に化学兵器を使用して虐殺した。


同年、国連が即時停戦などの内容で決議を採択。
先にイラクが受諾の姿勢を見せたが、相互の攻撃は収まらなかった。


1988年、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。
イランは国連決議の受諾を表明し、停戦が発効した。


1990年、イラン・イラク両国間で国交が回復。


イラン・イラク戦争中にアメリカやソビエトに援助された軍事力は、イスラエルをのぞいた中東では最大となった。
しかしこの戦争によりイラクは600億ドルもの膨大な債務を抱えることとなり、戦災によって経済の回復も遅れていた。


当時の原油価格は安値で推移していたため、イラク経済は行き詰っていた。


イラクが債務を返済できないのでアメリカは農作物の輸出制限を始めた。


食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮し、フセイン大統領は追い詰められた。


その頃、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPEC(石油輸出国機構)の割当量を超えた石油の増産を行なっていた。
OPECは石油産出国の利益を守るため、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国で設立された産油国の組織。


サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、サウード家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。
クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全に無視して大量に採掘し、原油価格は値崩れを起こした。


その結果石油価格は大きく下がり、イラク経済に打撃を与えていた。


イラクの訴えにより、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートは何もしなかった。


イラクはクウェートを批判したが、クウェート政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こった。


この事態に周辺のアラブ諸国が仲介に乗り出したが、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。


イラクはクウェート国境に3万人の兵力を集結させ、要求が受け入れられなければ軍事行動を取ると宣言。


イラクはついにクウェートに侵攻を開始。
イラク軍の圧倒的兵力での奇襲により、6時間後にはクウェート全土を占領した。


イラクの侵攻に対し、国連は即時無条件撤退を求める決議を採択。
さらに全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議も採択した。


アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはサウジアラビアへ圧力をかけて、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。


ジョージ・H・W・ブッシュ



アメリカはイラン・イラク戦争の時にイラクを支援しており、アラブ諸国にとって予想外の出来事だった。


サウジアラビアは石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。


アメリカは「有志を募る」という形で多国籍軍での攻撃を決め、イギリスやフランスなどもこれに続いた。
エジプト、サウジアラビアもこれに参加した。


イラクは国連の決議を無視して態度を硬化させ、イラク第19番目の県として併合を宣言。


そんな中エルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという流血事件が起こり、フセインは激しく非難し、PLO(パレスチナ解放機構)はイラク支持の立場を表明。
その結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られてPLOは苦境に立った。(これがきっかけとなり、3年後にイスラエルとPLOの間でオスロ合意がなされた。)


オスロ合意の内容は、イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認するというもの。
2006年のイスラエルによるガザ地区侵攻により、事実上崩壊したと見られている。


さらにイラクは、クウェートから強制的に連行した外国人を人質にすると国際社会に発表。
その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの民間人を監禁した。
のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前に全員が解放された。


しかしイラクはその後もクウェートの占領を継続したため、多国籍軍はイラクへの爆撃を開始した。


フセインは「アラブ対イスラエル」の構図を築こうと考え、イスラエルへ向けてスカッドミサイル43基を発射。
イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。


イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、フセインの目論見通りになることを恐れたアメリカは、イスラエルに参戦しないことを要求し、フセインの計画は失敗に終わった。


1か月以上行われた空爆で、イラクの軍事施設はほとんど破壊されてしまい、湾岸戦争開始から約2ヶ月でフセイン大統領は敗戦を認め、停戦協定が結ばれた。


アメリカはこの戦争に611億ドルを費やした。
その内520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアが360億ドル、日本が130億ドル、ドイツが70億ドルを支払った。


この時結ばれた停戦決議では、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。
1997年までは大きな混乱はなかったが、国連の査察団が抜き打ち方式に調査方法を変更した時、イラクは査察に協力的ではなくなり受け入れを拒否した。


翌1998年に国連の査察活動は停止。


2001年に就任したアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は、就任直後から査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。


ジョージ・W・ブッシュ



2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。
航空機を使ったテロ事件で、ハイジャックされた航空機が世界貿易センタービル、アメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突した。


世界貿易センタービル



アメリカ国防総省本庁舎



米同時多発テロ事件首謀者とされるのは、ウサマ・ビン・ラディン。


ウサマ・ビン・ラディン



ウサマ・ビン・ラディンはサウジアラビア出身のイスラム過激派テロリストでアルカイダの司令官。


ブッシュ大統領は、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ国家であると名指しで非難。
特にイラクに対しては、政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。


2002年、国連でイラクに武装解除遵守の最後の機会を与えるとする決議が採択された。
イラクは4年ぶりに全面査察に応じた。


2003年、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、非常に多くの疑問点があるという中間報告が出された。
イラクが提出した申告書に虚偽があるといった内容だった。


このためアメリカとイギリスは、イラクが決議に違反したものとして攻撃の準備を始める。
フランスが反対したため、アメリカとイギリスは決議無しでの攻撃に踏み切った。


まずは先制攻撃となる空爆を行ない、48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じた。


イラクへの攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国が反対を表明したが、アメリカはそれを押し切り開戦となった。


アメリカの圧倒的な軍事力によって約1ヶ月でイラク全土を占領。
イラク国内に入ったアメリカ軍は大量破壊兵器の捜索を行ったが、大量破壊兵器は発見されなかった。


これによりイラク国内は混乱し、各地で自爆テロや戦闘が起きる。


アメリカ軍による残党狩りによって2人の息子(ウダイ、クサイ)は共に戦死、サダム・フセインも逮捕された。


2004年には反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった。


ブッシュ大統領はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員の増強を発表。


2006年12月30日、サダム・フセインが処刑された。


2007年、ブッシュ大統領は「イラクの混乱の原因はすべて私にある」とテレビ演説した。


2010年バラク・オバマ大統領により改めて「戦闘終結宣言」が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた作戦が始まった。


バラク・オバマ



2011年12月14日、米軍の完全撤収によってオバマ大統領がイラク戦争の終結を正式に宣言した。


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