子供に教えることのまとめ

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日本の政党まとめ

政党の誕生は、明治時代にさかのぼる。


明治時代、板垣退助(いたがき たいすけ)が士族に自由民権運動を広め、その士族たちに担がれた西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争と呼ばれる大規模な反乱を九州で起こし、その4年後、明治天皇から「国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり)」が出されたところから始まる。


板垣退助(100円札の人)



フランス、イギリスなどの仕組みを基礎に、板垣退助が自由党を、大隈重信(おおくましげのぶ)が立憲改進党を作る。


大隈重信



「自由党」
一院制、主権在民、普通選挙などを掲げた。
内紛が絶えず、わずか4年で解党。
その後、立憲自由党(りっけんじゆうとう)を結成。


「立憲改進党」
立憲君主制、二院制議会、財産制限選挙制などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。
自由党とは対決路線。
自由党と同じく内紛が絶えなかった。
14年間で解党。
その後、進歩党(しんぽとう)を結成。


「立憲自由党(自由党系)」
自由党が解党され立憲自由党が結成されたが、板垣退助が中心なのは変わらない。
結党から1年後、すぐに名称を「自由党」に改名する。
立憲改進党と何度も揉めるが、その後身である進歩党と最終的に合意し、合同で「憲政党」を結党。
その際、自由党は解党。


「進歩党」
立憲改進党が解党され進歩党が結成されたが、大隈重信が中心なのは変わらない。
自由党(立憲自由党)と何度も揉めるが、最終的に合意し、合同で「憲政党」を結党。
その際、進歩党は解党。


この後いろいろな政党が誕生するが、利権の争いが目立ち、党の方針が見えない。


「憲政党」
自由党(立憲自由党)と進歩党(立憲改進党)が合同で結党した政党。
総選挙直後、すぐ再分裂して旧自由党側が「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は「憲政本党」と名乗った。
憲政党(自由党系)は、2年後に解党。これにより板垣退助の政治生命が終わり、伊藤博文をリーダーとする「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」が誕生した。
憲政本党(改進党系)は、12年続くが内紛により解党。新しく「立憲国民党(りっけんこくみんとう)」が誕生。


伊藤博文



「立憲政友会」
伊藤博文を初代党首とし、戦前の帝国議会における日本最初の本格的政党政治を行った政党。
1900年から1940年までの40年間続いた。
解党後、「大政翼賛会」に合流。


「立憲国民党」
選挙で全く振るわず、2年後解党。
その後、 「立憲同志会(3年間)」、 「憲政会(11年間)」 、「 立憲民政党(13年間)」と名前を変えて存続するが、全く振るわず。
立憲民政党は解党後、「大政翼賛会」に合流。




立憲政友会の6代党首「犬養毅(いぬかい つよし)」が五・一五事件(ご いち ご じけん)により暗殺されたことで日本の政党政治が終わり、軍の独裁政治が始まる。


犬養毅



五・一五事件とは日本海軍によるクーデターで、首相官邸や日本銀行、警視庁などを襲撃し犬養毅首相を射殺した。


その後、二・二六事件(ににろくじけん)が起きる。
今度は陸軍の反乱。
このクーデターにより、日本は「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」による一国一党政治が始まる。


「大政翼賛会」
一国一党の強力な政治体制を目指すのが方針。
現役軍人のまま内閣総理大臣に就任し、第二次世界大戦で敗戦後、連合国によって行われた東京裁判にてA級戦犯として起訴され、処刑された「東条英機(とうじょうひでき)」が所属した政党。
2大政党である「立憲政友会」と「立憲民政党」が合流している。
第二次世界大戦で敗戦後、解党。


東条英機



第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統制下で日本は政党政治への復活を果たす。
「立憲政友会」と「立憲民政党」は「大政翼賛会」に合流していたが、その中で戦争に協力していない政治家を中心に政党が作られた。


「日本自由党(立憲政友会系)」と「日本進歩党(立憲民政党系)」である。


「日本自由党」
結党から3年後、吉田茂を党首とする「民主自由党」となる。
民主自由党は2年後「自由党」に改称。
自由党はその後、日本民主党と合流するまでの5年間続いた。


吉田茂



「日本進歩党」
結党から2年後、「民主党」として再出発する。
その後、選挙で負けるたびに解党が続く。
「民主党(3年間)」→「国民民主党(2年間)」→「改進党(2年間)」→「日本民主党(1年間)」
日本民主党の党首は「鳩山 一郎(はとやま いちろう)」。


鳩山一郎



自由党と日本民主党は合同で「自由民主党」を結党。
現在に至る。