子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

明治時代1868年〜1911年 約40年間



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一世一元の制(いっせいいちげんのせい)という、同じ天皇の間は同じ元号を使い続けるという制度が始まる。
今現在もこの制度が継続されている。


翌年、都を東京に移した。
気分を一新したかったのと、経済発展の観点から栄えている港が欲しかったため。
徳川家による200年以上の支配のため、徳川家本拠地の江戸が経済の中心になっていたことが大きい。


同時に、版籍奉還(はんせきほうかん)というのが行われた。
これは、全国各藩の大名が支配していた土地、人民を朝廷に返しましょうというもの。
もともと人民は誰の持ち物でもないので理解に苦しむが、この時代の流れからするとそういう考え方になるのか。


同年、四民平等(しみんびょうどう)というのも行われた。
近代国に追いつくために新政府が打ち出したもの。


士農工商という生まれながらに決まっていた職業や身分を撤廃して、平等な社会を作るというもの。
しかし実際は、華族・士族・平民という階級を新たに作り差別は残された。
平民に苗字を名乗ることを認め、華士族との結婚、職業移転の自由を認めた。


華族・士族は全体の6%程度にすぎず、ほとんどが平民。
一番困ったのは士族で、この階級は武士だった人たち。
剣を持ち歩くことを禁止され、今まで何もしないで(剣術はしていた)もらえていた給料がもらえなくなった。


さらにその2年後、廃藩置県(はいはんちけん)を行った。
廃藩置県とは今までの藩を廃止し、府や県として政府から各地に知事を送り込んだこと(北海道を除く)。
中央集権のための制度で最初は3府302県あった。
版籍奉還は、廃藩置県を行いたいがためにやったこと。


同年、前島密(まえじま ひそか)らの努力により郵便制度が日本にできた。
前島密は日本の官僚で政治家。日本の近代郵便制度の創設者の一人で1円切手の肖像で知られる。


前島密



その翌年、ついに義務教育がはじまった。
全国に小学校を作った。
当初の就学率は、平均で40%程度(男性60%、女性20%)。


福沢諭吉が「学問ノススメ」を書いたのもこの頃。


福沢諭吉



学問ノススメ



当時の10人に1人が読んだ驚異的ベストセラー。
17編で構成され、今読んでも納得の内容。
ここでは最初のさわりだけ。
忙しい人のための 『学問のすゝめ』 要約」より。


初編


天は人の上に人を造らず


人は生まれながら平等であると言われているが、
現実には大きな差がある。それはなぜであろうか。
その理由は、学んだか学ばなかったかによるものである。


学問を身につけ、自分の役割を果たし独立すべき。
自由とわがままは異なる。学問とはその分限を知ることである。


自分の行いを正し、学問を志し知識を広め、各自の立場に応じて才能と人格を磨き、
外国と対等に付き合い、日本の独立と平和を守ることが急務である。


翌年、地租改正条例が公布される。
これは戸籍を作り国民を管理し、土地に地価を定めて地価の3%を税金として徴収するというもの。
今まで、米で徴収していた税をお金にした。
外国経済の仕組みを取り入れた。


同時期に徴兵令が出される。
国民に兵士になることを義務付け、組織的な国軍を持ち外国の勢力に負けないことを目指した。


同年、西郷隆盛が征韓論(せいかんろん)を主張する。
征韓論とは朝鮮を武力で開国させようという主張。


西郷隆盛



西郷隆盛は武士としての生き方、考え方を捨てきれなかった。
ほとんどが士族になり、突然刀を捨てて生きなければならなくなってしまった元武士達。
士族の働き口を作るために作った主張で、戦争しかできない無能な士族達に西郷隆盛は担がれてしまった。
岩倉具視(いわくら ともみ)・木戸孝允(きど たかよし)・大久保利通(おおくぼ としみち)に反対され、征韓論は中止となる。


岩倉具視



木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)



大久保利通



これが原因で西郷隆盛は政府を去ってしまった。


征韓論を主張していたのは、西郷隆盛だけではない。
板垣退助(いたがき たいすけ)もそうであった。


板垣退助



100円札の人。
征韓論が否決されたあと、今の政治は官僚による独占だと主張し始め、「民選議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」を政府に提出する。
民選議員とは、国会のこと。
選挙で選ばれた議員により国会で議論して物事を決めましょうという考え。


何もすることがない士族たちは、この民選議院設立建白書に便乗した。


この士族たちの活動が「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」として広がりをみせていく。


武力行使しか知らない士族たちは、各地(佐賀、熊本)で反乱を起こすようになる。


この反乱は行き着くところまで来てしまう。
西郷隆盛が士族たちに担がれ、西南戦争(せいなんせんそう)と呼ばれる大規模な反乱を九州で起こす。


徴兵により組織化された政府軍に鎮圧され、西郷隆盛は鹿児島に逃げる。
最後は政府軍に包囲され、西郷隆盛は自殺した。
西南戦争はいわば平民と武士の戦いで、平民が勝利したことで士族たちの武力反乱は落ち着きを見せた。


その4年後「国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり)」が出され、10年後の1890年に議会を開くことを約束した。


板垣退助が自由党を、大隈重信(おおくましげのぶ)が立憲改進党を作る。
フランス、イギリスなどの仕組みを基礎にしているがどちらもパッとしない。


大隈重信



ここで、ようやく内閣制度ができて初代内閣総理大臣に伊藤博文(いとうひろぶみ)がなった。
現在の制度は議院内閣制で、その前身に当たる。


伊藤博文



旧千円札の人。
ドイツの憲法を研究して、それをもとに大日本帝国憲法を作った。


憲法が交付された翌年、第1回衆議院議員選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれた。


その4年後、日清戦争が起こる(1年で終結)。
中国と日本で朝鮮半島をめぐり争った。
軍隊の近代化が進んでいた日本が勝利し、朝鮮半島の領土と中国から賠償金を手に入れた。
その後、ロシア・フランス・ドイツが領土の一部返還を要求(三国干渉)、圧力に屈した日本は一部返還を了承した。
しかし、この戦争をきっかけに日本の経済は好転する。


なお終戦の時に中国との間で結ばれた「下関講和条約」では、中国に朝鮮の独立を認めさせている。


この頃、「治安警察法」がだされる。
社会運動や労働運動の取りしまりを行うために作られた。要するに社会主義活動の取りしまり。
のちに社会主義者が明治天皇暗殺を企てたのをきっかけに大量の冤罪者を捕らえて死刑にした。


時代は1900年代に入る。


ロシア・ドイツは同盟を結び、満州(朝鮮半島の北の地域)を中心に中国への影響力を強める。
イギリスは中国の利権を単独で維持していたが、限界が出てきた。
そこでイギリスは日本に軍事同盟を求めてきた。
日本は将来ロシアと対立することになると考えていたため利害が一致。
日本とイギリスは軍事同盟を結ぶことになる。


日英同盟である。
この軍事同盟は約20年続いた。
10年後におきた第一次世界大戦に日本が参戦したのはこの日英同盟があったためで、日本は連合国の一員として参戦している。


日英同盟が結ばれてからわずか2年後、日本とロシアの間で日露戦争が起こる。
戦争の理由は、朝鮮半島北部、満州国領土の取り合い。


日本への三国干渉により満州での影響力を強めていたロシアは、朝鮮半島をも自国の領土にしようとした。
この時朝鮮半島では、大韓帝国という国が存在している。
大韓帝国は下関条約により中国からの独立に成功したが、長い中国の属国生活で軍事的にも経済的にも厳しい状態。
そこにロシアは狙った。


朝鮮半島をロシアに奪われてしまうと日本もたちまち乗っ取られてしまう。
そう考えた日本はロシアとの決戦を決意する。


朝鮮半島を中心に繰り広げられた日露戦争は約1年間続いた。
最後はアメリカの仲介によって日本勝利で終決した。
その時結ばれたのがポーツマス条約。


日本はロシアを朝鮮半島、満州から退けた。


アメリカが日本側に味方した理由は、ロシアを退けたあとの中国・朝鮮利権を手に入れたかったから。
アメリカはロシアのほうが脅威で、日本はまだまだ脅威にならないと考えていた。
当時はイギリス・フランスが先進を走り、その後をロシア・ドイツが追い、さらにその後方を日本とアメリカが追いかけていた。


日露戦争に日本が勝利したことで、ロシアの勢いは後退した。


ポーツマス条約により大韓帝国支配を公認された日本は大韓帝国の軍隊を解散させ、日本が治安維持にあたった。
この時民衆による反日運動や反乱が多数起きる。
伊藤博文が大韓帝国の統制にあたっていたが、反日勢力に暗殺される。
ちなみにこの暗殺者は、現在の韓国で英雄。


伊藤博文の暗殺により日本の報復を恐れた大韓帝国は反日運動や反乱をやめ、日本への併合を受け入れる。
この日本統治は、第二次世界大戦で日本が敗北するまでの間、35年間続いた。


朝鮮の学校では日本語教育が行なわれた。
日本政府は1万数千名の兵士を朝鮮全土に配置して民衆を監視し、民族運動や民族教育を取り締まった。


その2年後、明治天皇は持病の糖尿病をこじらせて病死し、時代は大正へと移る。


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