子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

江戸時代1603年〜1868年 約260年間



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日本において最後の幕府、「江戸幕府」。
徳川家康が征夷大将軍になるところから始まる。


徳川家康



まず、家康がやったのは戦争。
大阪の陣で豊臣家を滅ぼした。
これは、徳川家が存続するための不安を残さないため。


そのあと徳川家が支配者であり続けるための法律を作った。
武家諸法度(ぶけしょはっと)と禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)である。


武家諸法度は武士(御家人)に対する法律。
これは今までにも存在した。
禁中並公家諸法度は、天皇や公家に対する法律。
朝廷がまた権力を握ろうとしないように、学問と祭り事だけをしていなさいと示した法律。
この法律により、朝廷が政治を行う能力を失った。


徳川家は、禁教令をだす。
これは、キリスト教を禁止する法律。
キリスト教の教えは「神の下にみな平等」というもの。
徳川家はこれを嫌った。
キリスト教徒を発見するために「踏み絵(ふみえ)」を用いた。
紙にイエス・キリストや聖母マリアが描かれたものを踏ませて、踏めなかったものをキリスト教徒とした。
発見されたキリスト教徒は火あぶりの刑などで処刑された。





さらに徳川家の横暴は続く。
大名に「参勤交代(さんきんこうたい)」を義務付ける。





参勤交代とは、大名の経済力を削ぐ政策。
大名の妻子を人質として江戸幕府に置く。
大名は定期的(約1年)に本拠地と江戸を行ったり来たりする。
大名の移動には多額の費用がかかり、徳川家に対抗する力がなくなった。


キリスト教徒の弾圧と農民に対する圧政を怠らない徳川幕府。
それらの恨みが3年の不作をきっかけに爆発する。
「島原の乱(長崎県)」である。
徳川幕府は農民に対し、過度な年貢を強要していた。
実際の収穫高より倍の年貢を強要していたことと長引く不作が重なり、餓死する農民が後をたたなかった。
そんな中、キリスト教徒の天草四郎(あまくさしろう)が登場。


天草四郎



天草四郎は徳川幕府に不満を抱く農民にキリスト教を布教し、一揆の団結をはかった。
4万人の農民たちは一揆を起こしたが、徳川幕府は12万もの大軍を送る。
農民たちは、皆処刑されてしまった。
これが日本で初めての大規模な自由と平等を求めた運動(島原の乱)である。


これに対し幕府は、キリスト教が国内でこれ以上広まらないようポルトガル船の来航を禁止した。
これにより、鎖国が完成。
また五人組の制を厳しくし、同じような一揆が起こらないように国民を厳しく監視した。


五人組の制とは
五人組を組ませて犯罪の防止や年貢の納入に連帯責任を負わせたこと。
五人組の中に犯罪を犯した者がいたら組の者が幕府に密告する。
五人以外の者が密告したらその者に褒美が与えられる。


この時期から徳川幕府は、密告・監視体制が特に発達していった。


徳川家は農民に対する弾圧の手を緩めない。
慶安の御触書(けいあんのおふれがき)という法令を出し、農民を厳しく取り締まった。


この頃、慶安の変(けいあんのへん)という幕府反乱未遂事件がおこる。
何故未遂に終わったかというと、やはり密告である。


徳川綱吉が5代目将軍になる。
綱吉は「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」という悪法を出す。


徳川綱吉



生類憐れみの令は当初生き物全てに対する法令であったが、その後何故か犬に特化し、犬への虐待が取り締まられ、犬虐待への密告者に賞金が支払われた。
密告・監視社会としての機能を発展させた悪法である。
この法令は綱吉死亡後に廃止。


杉田玄白(すぎたげんぱく)がオランダの医学書を翻訳して「解体新書(かいたいしんしょ)」という医学書を著す。


杉田玄白



解体新書



平賀源内(ひらがげんない)がエレキテル(発電機)をつくる。


平賀源内



エレキテル



伊能 忠敬(いのう ただたか)が「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」という日本全土の実測地図を作成する。
56歳の時に16年かけて全国を測量して回りすべて手書きで完成させた。
この地図は当時世界的に見てもとても正確で国家機密となった。


伊能忠敬



大日本沿海輿地全図



シーボルトというドイツ人が長崎に来て医師として活動する。


シーボルト



シーボルトは鳴滝塾(なるたきじゅく)という私塾を開き、西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授した。
来日の目的は日本の内情探索。要するにスパイ。
日本滞在中、日本人女性との間に子供ができる。
名前は楠本イネ(くすもと いね)。
楠本イネは差別を受けながらも、産婦人科医として活躍する。


楠本イネ



シーボルトは日本に5年滞在し、帰国することになった。
帰国する際、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図を国外に持ち出そうとしたが見つかる。
シーボルトは日本国追放になるが、30年後に罪が許され再来日をはたしている。
これを「シーボルト事件」という。


江戸幕府が開かれてから230年がたった。
圧倒的武力で支配を続ける徳川家。
しかしこの間、3度に渡る飢餓騒動がおき、多くの日本国民が命を失った。
数は曖昧だが、100万人近い国民が飢餓により亡くなったとされる。


多くの国民が貧困にあえいでいる中、重税をとりつづけ、私腹を肥やす徳川家とその取り巻き達。
苦しむ国民のために立ち上がった一人の役人がいる。
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)である。


大塩平八郎



大塩平八郎は役人の肩書きをすてて、国民のために立ち上がった。
大砲を撃ちながら大阪を練り歩き、金銭を奪い飢餓に苦しむ農民に配って歩いたが、1日で幕府に鎮圧されてしまった。
役人がこのような反乱を起こしたことに幕府はちょっとだけ驚いた。
これを「大塩平八郎の乱」という。


このように、徳川幕府に対する不満は徐々に広がりつつある。
これから江戸幕府滅亡までの30年間を幕末という。


大塩平八郎の乱から10年がたったが、幕府が行う経済政策はことごとく失敗に終わっていた。
そんな中、ついに黒船が浦賀(神奈川県)にやってきた。


黒船来航
アメリカの使節ペリーが浦賀に来航(軍艦4隻)して開国を要求した。








この軍艦には大砲がついており、ペリーはその火力で幕府を脅し開港を要求した。
幕府は即答できなかった(朝廷から勅許[ちょっきょ]を貰わなければならないため)。


翌年ペリーは再び来航し、幕府は圧力に負けて日米和親条約を結んだ。
当時朝廷は、外国(当時、外夷[がいい]と呼んでいた。外夷は外国をいやしめた言葉)を嫌っており、「外夷は打ち払え」などと言っていた。
幕府は外国の圧力と朝廷との間で板挟みになった。


日米和親条約
下田(静岡県 伊豆)・函館の2港を開いて、アメリカ船に食料や燃料を与えることを約束。
その後ロシア・イギリス・オランダも和親条約を結んだ。
これにより日本の鎖国は終了する。


この時から、尊王攘夷(そんのうじょうい)という言葉が武士の間で流行する。
尊王とは、天皇を尊ぶこと。攘夷は外夷を打ち払うということ。
天皇を尊び外夷を打ち払うという意味。


黒船が来航したことにより、武士は幕府側(佐幕派 さばくは)と尊皇攘夷派(朝廷側)の2つに意見が別れた。
これが後の討幕、明治維新につながっていく。


その2年後、吉田松陰が松下村塾(しょうかそんじゅく 山口県 萩市)を開く。
松下村塾は約2年間の短い期間であったが、後の明治維新に関わる重要な人物を多数出した。
長州藩士はほとんどが吉田松陰の影響を受けているといってもよい。


吉田松陰



吉田松陰は長州藩士(山口県)で、佐久間象山(さくま しょうざん)から西洋兵法を学んでいる。


佐久間象山



佐久間象山は、西洋兵法、洋学の第一人者。
勝海舟(かつかいしゅう)の妹と結婚している。
後に吉田松陰がペリーの艦隊(黒船)に密航を企てた際、入獄させられる。
謹慎処分中に開国論者だということで暗殺される。


勝海舟



勝海舟は幕臣でありながら開国論者で明治維新まで大きな影響を与える。
坂本龍馬(さかもとりょうま)の師匠。
35歳で福沢諭吉(ふくざわゆきち)、ジョン万次郎(じょんまんじろう)と一緒に渡米する。
そこでアメリカの法律や世界観、現在日本の置かれている立場、日本の将来を理解する。
坂本龍馬が自分を殺害しにきた際、その場で論破し弟子にしてしまう。


福沢諭吉



福沢諭吉は、1万円札の肖像画の人。
佐久間象山の影響を受けている蘭学塾の講師をしていた際、英語を独学で学ぶ。
英語力を買われて、勝海舟、ジョン万次郎とともに渡米する。
アメリカで本を買い込み日本に持ち帰り、翻訳して「西洋事情」を出版した。


西洋事情



西洋事情では、アメリカ独立宣言の全文を翻訳して幕府機構の改革を唱えた。
また、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備について言及している。


明治維新後は、慶應義塾(現 慶応義塾大学)を開き、教育活動に専念した。
現在、すべての学問を日本語で学ぶことができるのは福沢諭吉のおかげだといっても過言ではない。


ジョン万次郎



ジョン万次郎は、土佐藩(高知県)の漁師だった。
8歳の時、嵐で遭難して無人島に流れ着く。
アメリカの捕鯨船に救助され、アメリが本土に渡る。
船長の養子になって、人種差別を受けながらも英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。
学校を卒業した後、捕鯨船員として活躍するが日本が恋しくなり苦労して帰国。
軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導を行った。
後に勝海舟、福沢諭吉と一緒に渡米し、手助けをしている。


坂本龍馬



土佐藩脱藩浪士(とさはんだっぱんろうし)、北辰一刀流免許皆伝を持つ剣の達人。
土佐藩の佐幕思想に愛想をつかし、脱藩(くにぬけ)する。
その後勝海舟の弟子になり、私設の海軍学校を作る。
幕府に疑われ、海軍学校が取り潰しになってしまってからは、亀山社中(かめやましゃちゅう)という会社を設立し、討幕活動を行う。
亀山社中はのちに海援隊と名前を変え、明治維新後その業務は三菱商事に引き継がれる。
のちに薩長同盟、大政奉還などの大仕事をやり遂げた後、恨みを買い暗殺される。
薩長同盟、大政奉還はあとでふれる。




さて、その吉田松陰、どうしてもアメリカに行って世界情勢を知りたくなった。
夜にこっそりと黒船乗り込み、密航をペリーにお願いした。
ペリーは幕府との関係がこじれるのを恐れ、吉田松陰を幕府に引き渡してしまう。
その後吉田松陰は、入獄させられ30歳で処刑された。


井伊直弼(いいなおすけ)が大老(たいろう 将軍の補佐役、最高職)になると、幕府に対抗する勢力を次々に捕らえ、処刑していった。
井伊直弼が朝廷の許可なく外国と通商条約を結んだことを批判する武士に対して行った虐殺で、これを安政の大獄(あんせいのたいごく)という。
安政の大獄で処刑されたのは2年間で100人以上である。
吉田松陰もこの時殺されている。


井伊直弼



大虐殺を行った井伊直弼は尊王攘夷派の武士に恨みを買い、桜田門外で暗殺された。
大老が暗殺されるという大事件に幕府の威厳が失われ、いよいよ時代は討幕へと移っていく。
この事件を「桜田門外の変」という。


その2年後、イギリスと薩摩藩(鹿児島県)の間で事件が起きる。
生麦村(なまむぎむら 神奈川県横浜市)で薩摩藩の最高権力者、島津久光の大名行列に乗馬散歩中のイギリス人4人が列に乗り込んできた。
下馬しなさいという命令を無視したイギリス人たちは薩摩藩士に切りつけられ、1人死亡、2人重傷を負った。
当時、大名行列に出くわした外国人は下馬して道脇で行列がすぎるのを待つことを通達されていたが、イギリス人たちはこれをしなかった。
これを生麦事件といい、このあと薩英戦争を招くこととなる。


島津久光



生麦事件の損害賠償を迫るイギリスは、鹿児島湾に軍艦を7隻送り込む。
これに対し薩摩藩は陸上砲台で軍艦3隻を中・大破させる。
イギリス本土はこの結果に驚き、薩摩藩との対応を軟化させた。
この戦争をきっかけに薩摩藩とイギリスの関係は親密になった。


尊皇攘夷活動で最も過激だったのは長州藩(山口県)であった。
京都で朝廷を抱えこみ、討幕を狙っていた。
薩摩藩はこの活動を危険視し、会津藩と組んで長州藩を京都から追い出すことに成功した。
この時、長州藩と親密だった公家7人が京都から追放された。
これを七卿落ち(しちきょうおち)といい、のちの明治政府で活躍する三条 実美(さんじょうさねとみ)もこの中に含まれる。


三条 実美



この仕打を不服とした長州藩は武力で京都を奪還しようとしたが、幕府とその味方についた薩摩藩により長州藩は敗北した。
これを蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)という。


幕府は長州藩を完全に取り潰してしまおうと考え、2度にわたって長州征伐を行ったが2度目は失敗に終わった。
これには、松下村塾出身の高杉晋作(長州藩)、坂本龍馬(土佐脱藩浪士)の活躍や、薩長同盟、幕府の威厳低下などが理由にあげられる。


高杉晋作



薩長同盟
坂本龍馬が仲介をし、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)がに軍事同盟を結び、倒幕の計画を進めた。


西郷隆盛



大久保利通



桂小五郎 別名:木戸 孝允(きど たかよし)



徳川家茂(とくがわいえもち)が病死し徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が第15代将軍となるが、倒幕派の勢いは止まらない。


徳川家茂



徳川慶喜



薩摩藩、長州藩に味方し、討幕を画策する公家の岩倉具視(いわくらともみ)は、まだ幼い明治天皇から倒幕の勅許(ちっきょ)を得るために工作を行った。


岩倉具視



倒幕のために日本人同士が殺し合い疲弊することが日本のためにならないと思った坂本龍馬は、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に大政奉還(たいせいほうかん)の案を託す。


後藤象二郎



大政奉還とは、徳川家が握っている政治の権限を朝廷に返してしまい、倒幕派に戦争の理由を失わせ、徳川家を存続させるというもの。
200年以上政権を握っていた徳川家が権力を手放すわけがないと思われたが、徳川慶喜の英断により鎌倉幕府から700年近く続いた武家政治が終わった。
徳川慶喜が大政奉還を受け入れ、王政復古の大号令により明治天皇が政治をとることが示された。
徳川慶喜が大政奉還を受け入れた日は、岩倉具視が倒幕の密勅を手に入れた日と同日であった。


徳川慶喜が大政奉還を受け入れた1ヶ月後、坂本龍馬が見廻組(会津藩)に暗殺される。


新政府の政治の方針として五箇条の御誓文が示された。
この内容は、坂本龍馬が後藤象二郎に大政奉還案を託した時に船の中で言った船中八策(せんちゅうはっさく)の内容が多く含まれている。


その後、西郷隆盛と幕府の勝海舟との話し合いによって、江戸城が新政府に引き渡された。(江戸城無血開城)


しかし不満を持った会津藩(福島県)・桑名藩(三重県)は新政府と対立した。
鳥羽・伏見の戦いや、函館五稜郭の戦いなどで抵抗したが、新政府軍に敗れた。
この一連の戦いを戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。
徳川慶喜は、最後まで逃げまわり明治維新後も生き延びた。
明治維新後は趣味に没頭する生活を送り、77歳で風邪により死亡した。


戊辰戦争の終結により、江戸時代は幕を閉じる。


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