子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

室町時代1338年〜1573年 約230年間



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足利尊氏(あしかがたかうじ)が征夷大将軍になり、京都に室町幕府を開くところから室町時代は始まる。


足利尊氏



鎌倉幕府とやっていることは変わらない。
役所や役職の呼び方がちょっと変わっただけ。
ようするに足利氏の世襲時代である。
独裁者が変わっただけ。


足利義満(あしかがよしみつ 3代将軍)の時に、南北朝が京都で1つになった。
南朝は後醍醐天皇が敗走して出来たものだから、自然に力が弱まる。
今の天皇家は、北朝系の子孫。歴代の数えはいろいろもめて南朝。
本来は、北朝側が歴代の数えになる。


足利義満



足利義満が京都の北山に金閣寺を建てる。
この時代の文化を北山文化と呼んでいいる。


金閣寺



さらに足利義満は、日本と明(みん 中国)の間で貿易を始める。
この貿易を勘合貿易(かんごうぼうえき)という。


勘合貿易とは
当時、倭寇(わこう)という中国の海賊が海を荒らしていた。
その対策として、勘合符(かんごうふ)という手形を持った船とだけ貿易をすることにした。
この勘合符を用いた日本と明の貿易のことを言う。


正長の土一揆(しょうちょうのどいっき)が起こる。
一揆とは、反政府デモみたいなもの。土一揆は民衆が起こす一揆。
民衆が貧困に喘ぎ、ついに日本初、政府に徳政令を求めて一揆を行った。
民衆の勢いはものすごく、幕府は一揆を武力制圧することが出来なかった。
結局徳政令は出さなかったが、借金をなくしてあげてやっとおさまった。


一揆についてちょっと補足
土一揆(どいっき):民衆が起こす一揆
国一揆(くにいっき):貴族階級の一揆
一向一揆(いっこういっき):宗教関係者の一揆


応仁の乱(おおにんのらん)が起こる。


応仁の乱とは
京都でおこった貴族同士の内乱。
足利将軍家の跡継ぎ問題がきっかけ。
10年間続いた。


この応仁の乱で、室町幕府の権力は完全に失墜。
全国各地で戦国時代が幕を開ける。
位が下のものが上のものを倒し、位をあげるという下克上(げこくじょう)が流行る。


戦国時代となり全国各地で戦(いくさ)が起き、国一揆、一向一揆なども起こるが、まだ足利氏が権力を握っている。


足利義政(あしかがよしまさ 8代将軍)が京都東山に銀閣寺を建てる。
この頃の文化を東山文化という。


足利義政



銀閣寺



銀閣寺なのに銀箔が貼られてないのは、応仁の乱で幕府が財政難だったから。


この頃、ポルトガル人が九州の種子島(鹿児島県)に来て鉄砲を伝える。
その6年後、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教を伝える。


フランシスコ・ザビエル

バスク人(スペイン領)。ポルトガルの王様の依頼で日本に来た。
2年間日本に滞在し、その後インドへ。
日本に影響力がある中国でキリスト教を広めたかったが、入国できず病死。


全国各地で合戦が行われる中、2人の武将による大きな合戦が起こる。
「川中島の合戦」である。



武田信玄と上杉謙信の合戦。
期間は12年にも及び、結果は引き分け。
川中島は、現在の新潟県。


上杉謙信



武田信玄



いよいよ日本史に大きな影響を与えた合戦が起こる。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)である。



織田信長と今川義元の戦い。
桶狭間は現在の愛知県。


大軍を率いる今川義元を少数(10分の1程度)の織田信長が討ち取った。


織田信長



今川義元



今川義元は、大軍を率いていたので油断していた。
織田信長は夜間、奇襲作戦を行い今川義元を殺すことに成功。


今川義元を滅ぼした織田信長は勢力を拡大し、京都に入った。
京都には朝廷があるので、当時の日本では重要な拠点である。


織田信長に敵対する武将を比叡山延暦寺(滋賀県)がかばう。
これに対し、織田信長は焼き討ちを行った。
結果、比叡山延暦寺による一向一揆はしずまった。


足利義昭(あしかがよしあき 最後の将軍15代)は織田信長と最初はいい関係を築いていたが、やがて対立する。
織田信長は、足利義昭の攻撃を退け京都から追放をする。


足利義昭



足利氏が京都から追放されたことで、200年以上独裁政治を行なっていた室町幕府が滅びる。


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