子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

鎌倉時代1185年〜1338年 約150年間



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いよいよ幕府の時代。


1185年、源頼朝が全国に守護(しゅご)、地頭(じとう)をおく。
名目は調子に乗りすぎた源義経を捕らえるため。


源頼朝



源義経



実際には、全国各地に武官を配置して武力支配を強めるため。
日本国民が本格的に武力の支配下に置かれたのはこの時から。


守護、地頭の役割を簡単に。


まず守護から
守護とは、軍事、警察、建設を担当する武官のこと。守護大名と呼ばれるものが各地方に存在し、その地方を占領する。
守護大名は、御家人(ごけにん)と呼ばれる源頼朝に服従している武士(軍人)の中から選ばれる。


次に地頭
地頭とは、土地、荘園(しょうえん)を管理して年貢(ねんぐ 税)を徴収する武官のこと。
武力で国民を押さえつけ、年貢を徴収する。
地頭は、御家人の中から選ばれる。


上下関係は守護の方が上で、地頭は守護に仕える。


1192年 源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という役職になり、鎌倉幕府という政府を開く。


幕府とは
征夷大将軍を頂点とする全国規模の武家政権。日本の軍事政権。
征夷大将軍という役職は、武官であり、軍事支配が強い時代の最高役職。


源頼朝の家来 御家人(ごけにん)とは
御家人とは、武士である。
源頼朝と「御恩と奉公」の関係がある。頼朝が御家人に領地を与え、御家人は頼朝に武力奉仕する。
この制度を「封建制度(ほうけんせいど)」と言ったりするが、ヨーロッパと日本の封建制度は違う。


封建制度とは
支配者が領地を分け与えて、代わりに軍役を負担させる制度。
ヨーロッパでは、誰に仕えるかを仕える側が選択できた。「こいつの下ではやっていけないな」と思ったら、違う人に仕えることが出来た。
日本では、上司は選べない。生まれながらに仕える人が決まっている。しかも絶対服従である。
生産者(農民)は奴隷として扱われていることは、日本もヨーロッパも同じ。


源頼朝が死ぬと、実権は北条時政(ほうじょうときまさ)に移る。


北条時政



軍事政権から、執権政治(しっけんせいじ)に変わる。
将軍職も存在しているが、力がない。


執権政治とは
今までは将軍独裁の政治であったのに対し、御家人たちが合議制(話し合い)で物事を決める政治になった。
その座長が執権という役職の北条時政。形式上北条氏の独裁政治ではないが、武家政治であること、世襲による政権であることに変わりはない。


源氏将軍は3代で途絶える。最後の源氏将軍は源実朝(みなもとのさねとも)。
源実朝は、勘違いと逆恨みにより暗殺された。



北条時政は娘婿の他氏を新将軍にしようと陰謀を企み、その陰謀が娘の北条政子(源頼朝の妻)にバレる。
北条政子(ほうじょうまさこ)は怒って、北条時政を幽閉する。
以後、執権は北条政子が握る。





幕府の混乱に漬け込み、朝廷が承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こす。


承久の乱とは
源氏が途絶え、北条政子が執権になるなど、幕府は混乱していた。
その混乱に漬け込み、朝廷に権力を取り戻そうとしたのが後鳥羽上皇(ごとばじょうこう 第82代天皇)。
源氏、北条氏に政治の実権が移ってしまったのが悔しくてたまらない。
また朝廷主導でいろいろ好き勝手にやりたいと思った。
「みんなで幕府を倒すぞー」と後鳥羽上皇がいったが、幕府から給金を沢山もらっていた御家人たちは幕府側についた。
院政の時代、朝廷のために働いてもボランティアみたいなものだったので御家人はそれを嫌った。
結局幕府が勝って、1ヶ月で乱は鎮圧。後鳥羽上皇は左遷される。


後鳥羽上皇



この乱のあと北条政子は京都守護を六波羅探題(ろくはらたんだい)という名前の役職にして北と南に設置した。
要するに、後鳥羽上皇がまた悪さしないように監視をつけた。


執権の3代目北条 泰時(ほうじょう やすとき)が武家の法律「御成敗式目(ごせいばいしきもく 全51か条)」を作る。
初めて作られたの武士の法律。


北条泰時



北条 時宗(ほうじょう ときむね)が8代執権に就任すると、当時世界大帝国だったモンゴル帝国(初代皇帝 チンギス・ハーン)が2度に侵攻してきた。
2度ともモンゴル帝国を退け、日本の国難を救った英雄とされる。


北条時宗



チンギス・ハーン



一度目の侵攻を文永の役(ぶんえいのえき)、二度目(7年後)を弘安の役(こうあんのえき)という。蒙古襲来と言ったりもする。
主に九州北部が戦場となった。
武士が「われこそは〜じんじょうにしょうぶせよ〜」とか名乗っているうちに弓で沢山矢を撃ってきた。



9代執権北条貞時(ほうじょう さだとき)が「徳政令(とくせいれい)」を出す。


徳政令とは
天災や戦争などで債務を負い、貧困生活を送っている御家人を救済するために出した令。
債務をなしにするというもの。
あくまでも御家人を救うための法令であって、国民を救うものではない。


御家人が債務を負った主な原因は、蒙古来襲である。
日本を侵略から守ったが、戦ってくれた御家人に給金や土地をあげることが出来ず(モンゴル帝国の土地を奪ったわけではないので)、御家人が債務を負ってしまった。


北条貞時



徳政令を出してみたものの御家人に対する信頼がなくなり、お金を貸してもらえなくなる。
そうすると、幕府に対する不満も高まる。
時代は討幕へと流れていく。


後醍醐天皇(ごだいごてんのう 第96代天皇 南朝の初代天皇)が即位する。



御家人の幕府への不信感が強まっているのをいいことに、朝廷の権力復活を企む後醍醐天皇。
2回戦争を仕掛けるが、負ける。
負けた天皇は左遷されるというお決まりのパターン。


ここで、後醍醐天皇に協力する有力御家人が現れる。
足利尊氏(あしかが たかうじ)・新田義貞(にった よしさだ)・楠木正成(くすのき まさしげ)の3人。


足利尊氏



新田義貞



楠木正成



この3人の有力武士のおかげで後醍醐天皇は討幕に成功する。
鎌倉幕府最後の執権、北条高時(ほうじょうたかとき 9代執権)は自殺した。





鎌倉幕府滅亡後、天皇中心の政治「建武の新政(けんむのしんせい)」を行った。
しかし武士に対する処遇が低く、不満を招く。


1年後には足利尊氏が挙兵して、京都が占領された。


後醍醐天皇は吉野(奈良)に逃げた。


後醍醐天皇は、吉野で政治を続けようとした。
足利尊氏は、朝廷に新しい自分の言うことを聞く天皇を迎えた。


ここで朝廷は南朝(後醍醐天皇系)と北朝(足利尊氏系)に別れた。
今の天皇家は、北朝系の子孫。歴代の数えはいろいろもめて南朝。
本来は、北朝側が歴代の数えになる。


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