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竹島(たけしま)は、主に2つの急峻な岩石でできた島からなる。
日本、韓国、北朝鮮がそれぞれ領有権を主張している。
「竹島」は日本における呼称で、韓国・北朝鮮では「独島(トクト)」、第三国では中立的立場から「リアンクール岩礁」と呼ばれている。
現在島根県に属している。
本来は人の住める環境ではなく無人島であったが、1953年以降、韓国が武力行使によって占拠。
韓国の武装警察官が多数常駐し実効支配を継続している。
日本はこれに対し「不法占拠」として抗議を続けている。
第二次世界大戦後、日本の領域は、1952年発効の「サンフランシスコ平和条約」より定められた。
しかし、この条約には竹島の記載はなかった。
サンフランシスコ平和条約には日本が放棄する島々について記載されている。
竹島の記載がなかったということは、竹島は日本の領土として扱って良いということ。
1945年(昭和20年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾して第二次世界大戦は終結。
ポツダム宣言とは、7月26日にアメリカ大統領、イギリス首相、中国主席の名において日本に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」を求めた全13か条から成る宣言。
戦後の日本では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がポツダム宣言の執行のため、占領政策を実施していた。
連合国軍の1国であるアメリカの総司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官に就任した。
ダグラス・マッカーサー元帥
この時、日本漁船の活動可能領域は「マッカーサー・ライン」によって決められていた。
このマッカーサー・ラインには、竹島は日本の活動可能領域に含まれていなかった。
サンフランシスコ平和条約が発行されると、このマッカーサー・ラインも廃止されることを知った韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領は、サンフランシスコ平和条約発効直前にマッカーサー・ラインにならった李承晩(イ・スンマン)ラインを一方的に設定し、竹島を韓国領に取り込み武力によって竹島の占拠を行った。
これは日韓国交正常化について話し合いが行われる直前であった。
李承晩(イ・スンマン)
サンフランシスコ平和条約が発行された時、韓国は朝鮮戦争の最中。
停戦まで3年間続いた朝鮮戦争は、戦後日本の経済を活発にした。
日本から韓国に物資を支援するため、発注受けた日本企業はアメリカから最新の技術を入手でき、大量生産技術を学ぶことができたからである。
以前、サンフランシスコ講話会議に参加することが許可されなかった韓国は、その時に日本から賠償金を得ることが出来なかった。
日本から賠償金を得るため、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領は日本政府との直接対話を希望し、アメリカの仲介で日韓国交正常化が話し合われることになった。
しかし韓国の強硬姿勢により話し合いは難航。
さらには韓国海軍によって日本の民間の漁船が銃撃され、船長が死亡するという事件も発生した。
国交正常化の話し合いが始まってから8年後、韓国で事件が起きる。
韓国では長期に渡り李承晩(イ・スンマン)の独裁が続いていた。
李承晩(イ・スンマン)は政権を維持するため、第4代大統領選挙で大規模な不正選挙を行う。
反発した学生や市民による民衆デモにより、李承晩(イ・スンマン)はハワイへ亡命。
その1年後、朴正煕(パク・チョンヒ)少将による軍事クーデターが発生。
朴正煕(パク・チョンヒ)
クーデターは成功し、朴正煕(パク・チョンヒ)は第5代大統領になる。
朴正煕(パク・チョンヒ)は、韓国復興のために必要な資金を日本から得ようと国交正常化交渉を再開する。
李承晩(イ・スンマン)ライン撤廃に向けての漁業協定について話し合われると、日韓条約反対デモが発生し交渉も凍結された。
この時の会談で、竹島の帰属問題を棚上げするという密約が交わされた。
進展しない日韓交渉に苛立ったアメリカは、この頃から露骨に介入するようになってくる。
アメリカの介入が始まってから2年後、日本と韓国との間で協定が結ばれた。
日本が韓国に支払った額は約11億ドルで、当時の韓国の国家予算は3.5億ドルであった。
こうして日本と韓国との間で「日韓基本条約」が結ばれ、韓国の日本に対する一切の請求権の解決、それに基づく関係正常化などの取り決めがされた。
日韓基本条約と共に李承晩(イ・スンマン)ラインは廃止されたが、現在に至るまで韓国は武力によって竹島の占拠を続けている。
国交正常化の話し合いの時に、竹島の帰属問題を棚上げする密約が交わされた影響である。
この竹島問題は戦後から続く日韓の大きな外交問題となっている。
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