子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

安土桃山時代1575年〜1603年 約30年間



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安土桃山時代と呼ぶ期間はとても短い。
たった30年しかない。


足利氏を追放した織田信長。
徳川家康と同盟を組み勢力を拡大する。


織田信長



徳川家康



長篠の戦い(ながしののたたかい 愛知県)という織田信長と武田勝頼(たけだ かつより)の合戦が起こる。
武田氏は足利氏を支持していた。
結果、織田信長が武田勝頼を打ち破る。


武田勝頼



これにより織田信長は更に勢力を拡大し、滋賀県に安土城を作る。





織田信長は、安土(滋賀県)に楽市楽座(らくいちらくざ)の制をひいた。


楽市楽座とは
当時、座という商人の間での独占販売が行われていた。
座があることで、独占権のある商人が力をつけてきたため織田信長はそれを嫌った。
座を撤廃し、自由な取引を行わせることで独占商人の力を下げ、自分の影響力を上げた。
経済の主導権を商人ではなく、領主が握るという政策。


その5年後、有名なあの出来事が起こる。
「本能寺の変(ほんのうじのへん)」である。
これにより、織田信長は死んでしまった。


本能寺の変とは
信長の重臣、明智光秀(あけちみつひで)が謀反を起こし、お茶会のために本能寺に滞在していた信長の寝込みを襲った。
信長は家来に火をつけさせ、その中で自殺した。
明智光秀は、比叡山延暦寺の焼き討ちを根に持っていたようである。


明智光秀



本能寺の変で信長の死をいち早く知ったのは信長の重臣、豊臣秀吉(とよとみひでよし)。
明智光秀をすぐに倒し、信長の後継者としての地位を確立する。


豊臣秀吉



翌年、秀吉は大阪城を築きそこを居城とする。


大阪城



その2年後、豊臣秀吉は関白(かんぱく)になる。


関白とは
天皇の代理として政治を行う役職。
天皇の代理として摂政、関白が政治を行うシステムを摂関政治(せっかんせいじ)という。


秀吉は出生時の身分が悪く、征夷大将軍になれなかった。
そのため幕府を開くことが出来ず、摂関政治の形をとった。
朝廷の信頼を得ていたので、関白になることが出来た。


関白になった豊臣秀吉は、関東の徳川家康を家臣に加える。


その2年後には、九州地方で最大勢力の島津氏を討って九州を従えた。
中国地方で最大勢力の毛利氏とは、本能寺の変がおこったあとすでに和平を結んでいる。


この頃秀吉は京都に聚楽第(じゅらくだい)を建てる。
聚楽第は豪華な宮殿で、豊臣秀吉の天下を世に知らしめることになった。


聚楽第



豊臣秀吉は刀狩(かたながり)を行なって、農民から武器を取り上げ武器を持つことを禁止する。
武器を捨てて農業に専念したほうが治安が良くなるという考えがあり、農民もこれに従った。


最後の抵抗勢力、北条氏は小田原城(神奈川県)に居城していった。
豊臣秀吉はこの小田原城を攻め、北条氏を破った。


その後、奥州(おうしゅう 東北地方)の伊達政宗を家臣に加えた。
その他、東北地方で秀吉に従わない領地を取り上げるとこに成功。
これにより、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げた。


伊達政宗



天下統一した秀吉、今度はその目が海外に向く。
当時世界ではスペインの植民地支配が加速していて日本も侵略される危険があった。
フランシスコ・ザビエルも50年前にスペインから来ている状況。
スペインは明(中国)を植民地にすることを狙っており、そうなった場合朝鮮半島から日本に侵略してくる危険が出てきた。
このため、2度に渡り朝鮮半島に出兵した。
日本の戦力は圧倒的で有利に戦争を進めたが、後に秀吉が死ぬと戦争の意味を失い全軍引き上げた。
この戦争は16世紀最大の国際戦争で、約6年間続いた。


豊臣秀吉は、天下統一のあと8年間しか生きていない。
死因は病死。何の病気だったかはわかっていない。


天下統一のあと豊臣秀吉が行ったことは、「朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)」と「太閤検地(たいこうけんち)」。


朱印船貿易とは
貿易船に朱印状を持たせ、東南アジアと行った貿易。
後に徳川家康が鎖国を行い貿易を禁止するまで続いた(約50年間)。


勘合貿易と朱印船貿易の違い
室町幕府の時に足利義満(3代将軍)が勘合貿易を行った。
これは、倭寇(海賊)を見分けるために勘合符(割符)を持たせて行った貿易。
朱印船貿易は、朱印状という政府許可証を持たせて行った貿易。
政府の許可を受けたものだけが貿易できるというもの。
秀吉の時代には、倭寇はほとんど存在しなかった。


太閤検地とは
全国の土地に対する検地(田畑の面積と収量の調査)を行い、百姓に年貢(税)の義務付けを行った。


太閤という役職
太閤とは、関白を甥の豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ) に譲った後の秀吉の役職。
関白を譲った後も、太閤として権力の座にいつづけた。


豊臣秀次



秀吉が死んだ後、徳川家康の勢力が強まり「関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい 岐阜県)」が起こる。


関ヶ原の戦い



西軍と東軍に分かれて行われた合戦で1日で勝敗が決まった。
西軍は豊臣秀吉の側近だった石田三成(いしだみつなり)が中心の豊臣軍。
東軍は徳川家康が総大将。


石田三成



天下分け目の戦いといわれ、全国のほとんどの大名が東軍と西軍に分かれて戦った。
東軍の徳川家康が勝利して、石田三成は処刑された。


西軍に味方していた毛利氏は戦後、領地を大幅に縮小された。
東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、そのほとんどが大名に出世した。


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