子供に教えることのまとめ

子供に教えたいことをいろいろまとめてます。

平安時代794年〜1185年 約400年間



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平安時代は、桓武天皇(かんむてんのう 第50第天皇)が都を平安京(京都)に移すところからはじまる。


都を奈良から京都に移した理由は、古いしがらみを捨てて気分一新したかったから。


この時代も遣唐使として多くの役人が唐に留学していたが、有名な2人の僧侶が唐へ留学できることになった。
最澄(さいちょう)と空海(くうかい)である。
最澄の方が7つ年上。


最澄



空海



唐に滞在していたのは約2年。実は非常に短い。
滞在予定は20年だったのにすぐ帰ってきちゃった。意外と根性なし。
唐から帰国した2人は喧嘩してそれぞれの道を歩み出す。


まずは、最澄が比叡山(ひえいざん 京都)に延暦寺(えんりゃくじ)という寺を建てて天台宗という仏教を布教し始めた。

桜がきれい。さすが京都。


1年後、競うように空海が高野山(こうやさん 和歌山)に金剛峯寺(こんごうぶじ)という寺を建てて真言宗という仏教を布教し始めた。



ちょどこの頃、国風文化(こくふうぶんか)が栄える。
国風文化とは、その名の通り日本独自の文化。逆に、中国から入ってきた文化を唐風文化という。


国風文化が栄えると、突然遣唐使をやめてしまった。
日本人の内向的な性格は、この時代から変わらない。


国風文化が栄えたこの時代(外交を絶てば、国風文化が栄えるのは当然だが)の書物が沢山残っている。


有名なものだけ抜粋


古今和歌集:醍醐天皇(だいごてんのう 第60代天皇)が編集を命じて出来た日本初の和歌集。



竹取物語:現存する最古の仮名の物語。



伊勢物語:在原業平(ありわらのなりひら 皇族)を主人公にした歌物語。



源氏物語:作者は紫式部(むらさきしきぶ)、光源氏(ひかるげんじ)という主人公が繰り広げる出世、恋物語。全54巻、3部作。



土佐日記:紀貫之(きのつらゆき)が土佐から帰る旅の途中に書いた日記。



枕草子:清少納言(せいしょうなごん)の随筆(ずいひつ エッセイのこと)。春はあけぼの・・・からなる。



平安時代中期、荘園整理令が出される。
荘園整理令が出された理由は、朝廷への税収が減っていたから。
管理できない土地が多く、脱税が蔓延していた。
この頃の国民は、一方的に搾取されていたので脱税が流行るのは当たり前。


この頃、権力を持っていた豪族は藤原氏(ふじわらし)。
平将門(たいらのまさかど 平氏へいし 豪族)が反乱を起こしたが、負ける。



藤原 純友(ふじわら の すみとも 藤原氏 豪族 海賊)も同時期に反乱を起こすが同じく負ける。



この時の関白(かんぱく 天皇の代理)藤原基経(ふじわらのもとつね)の権力は絶大だった。



補足:征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)と関白(かんぱく)と摂政(せっしょう)


征夷大将軍という役職は武官であり、軍事支配が強い時代の最高役職。
関白は、天皇の補佐役という名目の最高役職。藤原氏に独占され続けた役職。
摂政は、天皇が病弱、子供の場合につく最高役職。天皇に代わってなんでも自分で決められる。藤原氏に独占され続けた役職。
天皇の代理として摂政、関白が政治を行うシステムを摂関政治(せっかんせいじ)という。


幕府が開かれると最高役職は征夷大将軍となり、武家政治(武力で国民を弾圧する政治)に切り替わる。
例外的に武力で全国統一した豊臣秀吉の役職が関白になる。
これは秀吉の出生時の身分が悪く、征夷大将軍になれず幕府を開くことが出来なかったため。しかし朝廷の信頼は得ていたので関白となり、摂関政治の形をとった。


豊臣秀吉



藤原頼通(ふじわらのよりみち)が摂政になり、平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てる。
建物全体が鳳凰が羽を広げたような形状で国宝。



平安時代末期、摂関政治に変わって院政(いんせい)という政治が行われるようになった。
院政とは、上皇(天皇の親の世代)が天皇の代わりに政治を行うというもの。


幼い天皇を立てて、上皇が事実上の最高権力者となった。
藤原氏から権力を取り上げ、摂政・関白は無力化されていった。


幼い頃に天皇にさせられ、成長したら天皇をやめさせられるという事に不満が出てくるのは当然。
「保元の乱(ほうげんのらん)」という朝廷内部の権力争いが起こった。


保元の乱が起きた時、鳥羽上皇(とばじょうこう)の跡継ぎ問題で朝廷はもめていた。
崇徳天皇(すとくてんのう)と後白河天皇(ごしらかわてんのう)が争った。
兄弟対決である。崇徳天皇が兄。
後白河天皇には、源氏(げんじ)と平氏(へいし)の有力皇族がつき、圧勝した。
この時大活躍したのが、源義朝(みなもとのよしとも)と平清盛(たいらのきよもり)である。


源義朝



平清盛



この戦いに勝った後白河天皇は、後白河上皇となり院政を行った。
源氏と平氏は当然力を持つようになった。


後白河天皇



力を持つようになった源氏と平氏。
今度は源氏と平氏で権力争いをする。
そこで起こったのが、「平治の乱(へいじのらん)」である。


平清盛が勝利し、源義朝の子供、源頼朝(みなもとのよりとも)を伊豆に追いやってしまった。
そんなことしたら、当然恨みをかうでしょう。


源頼朝



戦争に勝利した平清盛は、天皇から太政大臣(だいじょうだいじん)の役職をもらう。
武官では初。征夷大将軍より役職が上。


権力を握った平清盛は、中国(当時 宗[そう])と貿易を再開する。日宋貿易(にっそうぼうえき)という。
遣唐使を廃止して以来の貿易再開、約270年ぶり。


僧侶 法然(ほうねん)が浄土宗(じょうどしゅう)という仏教をはじめる。



伊豆でくすぶっていた源頼朝が、伊豆の豪族 北条 時政(ほうじょう ときまさ 武将)を味方につけて関東地方で挙兵。
目的はもちろん、打倒平氏。


北条時政



ちなみに、この頃平清盛は熱病で死んだ。
平清盛が死んだあと、後白河上皇は源氏に味方するようになる。


平氏は、最後北九州まで逃げて抵抗するが、壇ノ浦(だんのうら 現在の山口県下関市)で滅びる。
この戦いを壇ノ浦の戦いという。


壇ノ浦の戦いでは、源義経(みなもとのよしつね 頼朝の異母弟)が後白河上皇の許可をもらって参加。
平氏の滅亡に一役買うが、自己中心的な行動で源頼朝に目をつけられ、殺される。


源義経



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